−追悼1995,1.17−

 『幸福堂のプリン』

「何か欲しいものない?」と母は市場へ行く時いつも尋ねた。私が中学生の頃のことだ。「幸福堂のプリン」と決まって応えた。

幸福堂というのは家の近くにあった商店街の入り口近くにある和菓子屋のことだ。私は甘いものが大好きで、母はよくその店で団子や大福を買ってきた。ところがある日、こんなものを始めたそうだと言っていつもの白い袋を買い物かごから取り出した。中にはプリンが入っていた。きれいな卵色をしていて表面はつややかだ。ぷうんと甘い香りもする。一緒に入っていた小さなプラスチックのスプーンですくってひとくち食べると、つるりとした感触とともに口の中にほんのり甘い卵の味が広がった。幸せな気分になった。

当時は近くに洋菓子店などまだなかったので、和菓子屋でおいしいプリンが買えるなんてこんなに嬉しいことはないと思ったものだ。以来すっかりプリン党になってしまった。

1995年1月17日。大震災が私のふるさと神戸を襲った。実家付近は激震地区で壊滅状態だった。生まれ育った家は倒壊こそ免れたが、「全壊」であとかた残らず撤去された。寝たきりだった父と看病に明け暮れていた母は、全て倒れた家具の隙間で奇跡的に無傷で兄一家に助けられた。父はその後病没し、母は大きな喪失感から心を病み笑わぬ人となった。枯れ枝のように痩せ、病院から一生出られない身となった。

「あ、忘れた」と言って私をがっかりさせ、「うーそだ」と言って手品師のようにパッとプリンを出してくる茶目っ気の多い明るい母だったのに。残念で残念で仕方がない。悪夢のような大震災は、人々に計り知れない悲しみを与え人生を狂わせた。そして今なお苦しみを与え続けている。

震災後、幸福堂のことが気になった。あの実直なご夫婦は無事だろうか。店はどうなったのだろう。確かめたくなった。しかし思えば私が神戸を出てからすでに二十数年になる。店はまだ営業していたかどうかもわからない。とにかく足を運んでみることにし、神戸に出向いた。商店街もまた壊滅状態だった。店のあった場所へと急いだ。あった。店はあったのだ。息を呑んで立ち尽くした。一階の店舗は押し潰され、二階は地に落ちている。看板は地面に叩きつけられ歪んで外れかかっている。しかし読めたのだ。確かに「幸福堂」と読めたのだ。懐かしさと同時にその惨状に胸が痛んだ。

その後テレビのニュースで、この御旅商店街が復活したことを知った。私は心から喜んだ。幸福堂も再び営業を始めているのだろうか。私の好きな和菓子や幸せにしてくれたあのプリンは健在だろうか。あの黄色い色は地域の人々に今もささやかな幸せを与え続けているのだろうか。そしてその幸せをかつてせっせと運んでくれた母に、今の私は何をもって幸せが運べるのだろうか。笑わぬ母に。
1996年5月 記
前のひとり言 次のひとり言

ひとり言 INDEXへ