『恋心を表すことは』


片想いでも相思相愛であっても、恋のさなかにいるときは、人は恋煩いという名の病に罹った状態にある。しかもこの病には特効薬も治療法もないから始末が悪い。

私も今までに少なからず恋をしてきた。どういうわけか、すぐ人を好きになってしまう。手ぐすね引いて待ちかまえているわけではないが、降って沸いたように恋は突然やってくる。そしてやって来たが最後、病は日ましに重くなってしまうのだ。

恋をすると見るもの聞くものすべてが恋心を刺激し胸をしめつける。会いたいと思う。話したいと思う。その人のことは何でも知りたいと思う。寝ても覚めても意識が離れることがない。成就したあかつきには、これまた歯止めが利かなくなり、のっぴきならない狂おしい恋の世界に浸ってしまう。

しかしながら私には疑問がある。いつの世にも恋は巷にあふれんばかりに存在した。歴史や文学においても大恋愛は数限りない。それにもかかわらず、あの、恋をしている者の「せつなく苦しい」心境を、みごとに表現している小説や映画になぜ出会えないのだろうか。ロミオとジュリエットの科白を読んでもピンとこない。究極の恋愛映画と言われた「マディソン郡の橋」も「タイタニック」もピンとこなかった。なぜなのだろうか。それは現象面の描写や説明しかできない“言葉の限界”と関係があるように思う。

おいしいものを食べたとき、「旨い」とか「おいしい」と言う。どんなふうにと訊かれれば、「何々のようだ」とたとえてみたり、「とても」と強調語を付け加えてみたりする。関西人なら「まったりとした」と逃げるかもしれない。それぐらいしか浮かんでこない。味覚がとらえたすばらしさに感動し、その味を身振りや表情で誇張はできても、的確に言葉で表現するのは至難の技なのだ。

恋心を表すのにも同じことが言えないだろうか。烈しい恋をし気も狂わんばかりに相手を想っていても、主観的客観的に説明はできるが、もやもやとした想いは表現できない。恋心の「甘させつなさ苦しさ」は表現不可能なのである。

したがって私は恋をすると、とにもかくにも湧き出てくる言葉を書きとめる。それが「もやもやとした狂おしさ」に対する一服の清涼剤となる。恋する者の心理を表すのは、どだい無理なことなんだと居直り、せっせと私は恋愛詩を書き続けている。 
2002.11
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