『巻かない白菜と巻いた大根』

わが右近庵は古く汚いが、自慢できるものがある。それは周りの自然の豊かさと庭の広さである。(但し、「邸宅」に住まわれている方の観念は除外させていただく。ごくごく一般的に「広い」だけだ。)売りに出ていても、たいていの人が素通りする超中古物件を即断で買ったのは、この二点ゆえである。

この庭からは山しか見えない。人工的なものは何も目に入らない。フェンスから見おろすと、人がひとり通れるくらいのけもの道だか散歩道だかがあり、その下方には田んぼがある。向こう側には小山が連なっている。季候のいいときにはこの山を歩く。また、これらの山々の表情を年中楽しむことができる。特に新緑と紅葉の頃の美しさと云ったらない。もちろん雪の薄化粧の山々もなかなか良い。ここK市のドン詰まりは、大阪とは思えぬ風情があるのだ。

越してきたとき、この庭はだだっ広いだけの荒れ地であった。開拓者精神で花壇や畑を作ろうと土を掘れば、恐ろしいほどいろいろなものが出てきた。コンクリートの塊、鋼鉄、針金、大きな石、わけのわからないプラスチックの破片……。掘っていると、まるで「花咲か爺さん」の悪い方の爺さんを彷彿とさせた。聞けば初代の家主が残土を積んで庭を広くしたのだとか。なるほどそれでか……。

五年が過ぎ、その庭もそれなりに庭らしくなった。雑草混じりではあるが芝生も根づいた。春から秋までは花壇に四季おりおりの花が咲く。ちっぽけな菜園では、成長が早い夏野菜たちが元気に育つ。しかし冬だけはネギくらいしかない殺風景な庭である。そこで、冬野菜でも育てようかと白菜と大根の種を蒔いた。自家製の白菜と大根おろしで鍋が楽しめれば嬉しいものだ。芽が出て株を植えてからは、ますます成長が楽しみになった。

ところが、である。鍋の季節に突入しても白菜は、菜っぱ状態なのだ。白菜ではなく何かほかの葉っぱ類の種を蒔いたのだろうか。いや、そんなことはない。袋に「白菜」と書いてあった。一方「時なし大根」は情けない白菜を尻目に、見事な葉を地上に増やし続けた。やれやれ一安心。こちらはうまくいきそうだ、と胸をなでおろしたのだった。しかし大根たちも地中で悪戦苦闘していたことがあとでわかったのだった。

二月になっても結球しない白菜のことを旧友Dにメールで聞くと、種を蒔く時期が遅かったり暖冬のとき結球しにくいという答えが返ってきた。両方の条件が揃っている。これはもう諦めるしか何とも仕方がない。巻かずとも味が良ければよい。あるいは白菜だと思わず料理すればよいのだと納得しようとした。大根の方も硬い土に脚のもっていき場がなく、苦しまぎれに、あっちへ曲がりこっちへ曲がりし、一回転して捻れてしまったものまである。

こうしてできた葉ぼたんのような「巻かない白菜」と横綱のまわしの如く結ばれた「巻いた大根」は、形こそ不可思議であったが味は良かった。何度見ても笑ってしまう愛嬌のある初めてのわが庭の冬野菜たちである。

次は「巻いた白菜と巻かない大根」を目指したいものだ。


2003年3月
巻かない白菜
巻いた大根

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