『丸いものが嫌いな人たち』
………「蜻蛉(とんぼ)玉」続編

No.9のL君と「私」のことをもう少し述べたい。

内田百(ひゃっけん)が自分自身ではないとことわる「私」は、ある時、友達から台湾の小さな蜻蛉玉を貰う。小指の先を丸くしたくらいのもので、鮮やかな青磁色に白い条(すじ)が走っている。「私」は、真ん中にあいている穴に白い絹糸を通し玉を吊し、床脇の額の受釘にぶら下げて眺める。しかしそのうち蜻蛉(とんぼ)玉のことを忘れてしまう。

L君が訪ねてきてその下に座り「私」と話すが、突然悲鳴に似た叫び声をあげ跳びのく。
「いけませんねえ、いけませんよ。どうしてこんな悪戯(いたずら)をなさるのです」
L君が小さな丸いものを見ると非常に恐れることを知らず不注意だったと「私」は詫びる。L君は林檎(りんご)やボールはまだいいが、葡萄(ぶどう)、ラムネの玉、ナフタリンの玉、蜜柑(みかん)玉の菓子、土瓶の蓋のつまみなどがすべて駄目だと不機嫌に言う。「私」はまだいろいろ小さくて丸いものを考えだして確かめたくなるが押さえる。そして小さな丸いものを避けて暮らすL君の窮屈さを慮(おもんぱか)る。

またある時「私」は客人から、まん丸の五色の球を土産に貰う。それが何かわからない「私」に、客に楊枝の先でちょっと突っつくと皮が剥けると教えてもらう。それが「切腹羊羹」だとわかる(スゴイ呼び名である)。妙に弾力があり、肌がなめらかで、つるつるしているのを「私」は不気味に思う。客の言うまま楊枝で球の肌を刺したか刺さないうちに、球の薄皮が、ずるずる剥けて畳の上にころがり落ちる。「私」はこんな丸い物を食うのだけは面白くないという曖昧な気持ちに気づく。そしてL君のことを邪推する。いつもL君が座布団を真っ直ぐに敷き吸い殻の向きを揃えて灰皿の中に並べてくれるのも、自分に対するいたわりばかりでなく、L君自身がそうしなければ済まなくなっているに違いない。そう思うと、ますます丸い羊羹など食う気にならなくなったという、それだけの話である。

皆さんは、この話を楽しめただろうか。それとも「何だコレ」と思っただろうか。思うに百閧フ面白さは「天然のナンセンス」である。どの作品でも決して笑わせようとか驚かそうとする意図がない。いつも大真面目に淡々と飄々(ひょうひょう)と書いているに過ぎない。しかしそこには独特のおかしさが漂っている。それが好奇心旺盛な子供のままの感性をもつ百(ひゃっけん)の魅力である。文学で何か高尚なものを吸収しようなどと肩肘張って読まずとも良い。楽しめば良いのだ。百(ひゃっけん)あたりを若い人にもっと読んで欲しいものである。

では最後にもう一作紹介しよう。題名は「餓鬼道肴蔬(こうそ)目録」。昭和十九年、食べものがなくなったので、せめて記憶の中から旨い食べ物、食べたい食べ物の名前だけでも探そうと思ったという注がある。ではその一部を。

さわら刺身、生姜醤油、まぐろ、霜降りとろノぶつ切り、あわび水貝、くさや、いいだこ、ポークカツレツ、このわた、カビヤ、松茸、油揚げの焼キタテ、西条柿、揚げ餅、鶴屋の羊羹、シュークリーム、すうどん、汽車弁当、押麦デナイ本当の麦飯………等々。

百品少々の羅列である。何と切々と愉快であろうか。 
2003年1月
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