『めざせ“脱・几帳面”』

私という人間をひと言で表せば、意外や意外、「几帳面な人」ということらしい。

私は整理整頓が大の苦手で典型的な片付け下手である。書き物の机の上はすぐにいろいろなもので溢れ、それらがバサバサと下へ落ちる。猫も落とす。何冊もの読みかけの本やCDは山積みになり、時になだれる。情報収集のための新聞や雑誌の切り抜きも、そこいらに散乱する。一念発起して片付けようとはするが、いつのまにかしゃがんで何か読み始め、作業は必ず中断されたり中止され、結局まっすぐに並べて終わってしまう。また、めでたくスッキリと片づくと、今度は何がどこにいったかわからなくなり探すのに苦労する。だから片付けない方がよい。人には雑然として見える「乱雑の秩序」を好むこんな私が、なぜ人に几帳面と言われるのだろうか。

仕事人間の頃は、たしかに几帳面であった。仕事となると日常生活とは全く別の、仕事モードに変身する自動スイッチが入るのだ。毎日掃除する教室は整然としていた。学習指導では一人一人の能力を引き出すキメの細かさにこだわった。個人的に問題が発生すると、すぐに本人や父兄と密に話し合って解決した。さらに行儀、礼儀、風紀までもやかましく言った。(これはあとで感謝された)生徒に厳しくするからには自分にも厳しくせざるをえない。一日じゅう頭の中はフル回転、一年じゅう気合いが入りっぱなし、「全身これ几帳面」の塾の先生であった。

では仕事を辞めた現在でも同じ形容詞をつけられるのはなぜか。しばし沈思黙考してみた。そうだ。家で片付けない私とは別に、外向きの私が人にそう言わせるのだ。然り。対人関係において私は極めて几帳面である。しかもそれは病的な域に達している。待ち合わせ時間には遅れない。手紙や葉書をもらうとする。それが気のおけない人でなければ、その日のうちに返事を書いて投函する。軽い口約束で何かすると言ってしまえば、翌日にもそれを実行して驚かれる。頼まれたことは断ることなく引き受け、無理をしてでもすぐに済ませ喜ばれる。相手が冗談で言ったことに懸命に応えて笑われ、時には肩すかしを食って気落ちする。誰かが来るときは、それが客でなくて注文した商品を届ける宅配便の人であっても、時計を睨んでそわそわと何もできずに待っている。腹痛が起こることもある。

なぜ私はこうなのか。これは生まれついての性格なのか。母は「全身これアバウト」のような人であったのに。過剰なほどに染みついた妙な律儀さ几帳面さは、いったいどこから来ているのか。思いあたることは一つある。それは思春期に読んだ本である。上田秋成の「雨月物語」に含まれる「菊花の約(ちぎり)」、太宰治の「走れメロス」に感動し心酔したことだ。誠意とか信義とか、今では鼻をつままれそうなことを多感な頃に刷り込まれた。それが大きな原因かもしれない。

作家の田辺聖子氏は、生きていく上で「まあこんなもんやろ」と「ほな」で、たいてい凌げると書いている。関西語圏外の方のために解説すると、「こんなものだろう」と適当なところで妥協し、「それなら」と発想の転換をはかったり事態を収拾したりして、物事を突き詰めて考えないのが身のためということか。

昨今、私に限らず対人関係で悩む人々は多い。ストレスと呼ばれる大部分がこれではないか。人に誠意を尽くすのはよいことだが、尽くしすぎたり人との衝突を避けんがために神経をすり減らすのは身の毒だ。ここら辺で「こんなもんやろ」と「ほな」で「脱・対ヒト几帳面」を図るべきか。それができれば苦労はないが。去年から鬱を持ってしまった私の精神面は一進一退でまだ頼りない。目下のところ猫と喋るか、こんなふうにひとり言を呟いているのが心地よい。

菜種梅雨。あした晴れたらアジでも干そう。心もついでに干してみよう。
2003年4月

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