「“怨憎詩集”完結にあたって」

五月のHPリニューアルで加えた「怨憎詩集」を完結させることにした。今回の「冷たい夏」で最後の詩としたい。

掲載詩の大部分は、昨秋、恨み骨の髄までという心境で書いたものであることはすでに述べた。それらは十編ほどであった。隔週に一つずつ出せば、いずれ出し尽くしてしまう。そのときは、また作って足していくつもりでいた。月日がたてば私の心境も変化し、それにつれて詩の傾向も変わるであろう。それを見きわめてやろうという思惑もあった。

「憎しみからは何も生まれない」という崇高な言葉に対し、「憎しみからは何が生まれるか」という問いかけをした。私がこれほど傷つき、身も心も生活も破壊されているのに、それすら知らず幸せにのうのうと暮している人間がいる。犯した罪を最少限度に見せかけようと、土壇場に追いつめられても隠し、嘘をつき続ける往生ぎわの悪いもう一人の身近にいる人間。この恨み、この憎しみは何をか生むはずだ。

そんなことを漠然と考えていた頃、文芸雑誌で林真理子氏の「ガーデンパーティー」という短編を読んだ。その主人公は私よりずっと若い女性であったが、同じような苦境に立たされていた。祝福されて恋愛結婚をしておきながら、数年後に夫は別の女性と深い仲になる。そして結局、二人は離婚する。主人公が夫に対する口惜しさを吐露する描写は、自分に重なり痛いほどわかるのだった。

あれほど祝ってくれた共通の友人たちは一斉に沈黙し、再婚する元の夫の結婚式に大半が出席すると知る。かつては愛の棲家に招き、精いっぱいもてなした友人たちだったのに、誰ひとりとして彼女のために憤る者はない。ある日、主人公は昼食をとりに洒落たレストランへ出向く。そのレストランでは、数日後に彼らの挙式がおこなわれる予定であった。はやりのレストランウェディングで式を挙げ、かつての友人たちが集って祝福するのだ。この恨み、何をか生むと彼女は信じて芝生に立つ。思いを込め、その場所から憎しみを大地に注ぎこむところで物語は終わる。

憎しみが浸みこんだ芝生に立つ彼らには、どんなことが起きるのだろうか。主人公が望むような不幸なできごとは、今後の彼らに本当に起こるのか。倫理にもとることをした人たちには、かならずや天罰がくだるはずである。そうでなければあまりにも不公平ではないか、神など居ないことになる。そう彼女は思ったにちがいない。私も烈しい憎しみが、二人の人間に何をか不幸を喚起するものと信じて疑わなかったからだ。

そんなことを考えながらも私は詩を書いた。書かなければ沈んでしまい、うつ状態に陥った。HPを開設したのもその頃である。出口のない苦しみのなか言葉を捕え、文字を連ねることが私にとってどれだけ慰めになったであろうか。それが憎しみであろうと強い感情は私に詩を書かせた。軽い気持ちで書きはじめた「水無月右近のひとり言」は、つらさを忘れてのめり込んで楽しんだ。その頃の心情とは裏はらの、飄々とした右近調にいつのまにかなっていた。そのギャップを意識しつつも、詩でも文でも書いている間だけ苦しみから解放された。またしても「言葉」は私を救ったのだ。

かくして詩を書きつづけ、文を書きつづけてきたわけだが、ここにきて書けなくなってしまったのが「怨憎詩」である。もう少しばかりひねり出してやろうと、去年のことを無理に思い出して憎しみを再燃させようとしても出てこない。恨みや憎しみは、続かないのだろうか。恨みや憎しみは、なぜ薄められてゆくのだろうか。内臓が煮えたぎるほどの怒りを持ち、死をもって抗議しようかと恨んだときもある。その人間たちに何か良くないことが起こるとよいのにと願うほど憎んだ。あの感情は、どこへ消化吸収、あるいは排泄されたのであろうか。

赦したのではない。赦すことはまだできない。永久にできないかもしれない。自分がそれほど寛大な人格者であるとは思えない。にもかかわらず、それら負の感情が小さくなってきていることを認めないわけにはいかない。それはなぜか。時が和らげたのだろうか。それともあきらめたのだろうか。「あきらめる」という語の語源は、「明らかに見きわめる」だそうである。私は、あきらかにみきわめたのだろうか。

平穏な気持ちになるためにはどうすればよいのかと書物に答を求めた。古人の知恵に頼りたいと思ったからである。「方丈記」や「徒然草」に流れる「無常観」は、「執着」を取り払ってくれた。

――世にしたがへば、身、くるし。したがわねば、狂せるに似たり。(方丈記)
「自分の権能にあるのはわが心一つである。肉親も、妻子も、主人も召使いも、すべて自分の意のままにはならない。身分、収入、権力などの社会的欲望も満たされるとはかぎらない。それならわが身一つ、わが心一つの自由に遊ぼうではないか。それこそ「安心」の道だ。」

――吾が生(しょう)既に「さだ」たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。(徒然草)

「自分の人生は、もはやこれ以上やっていけないところまで来ている。世の中のきまりや人間関係を顧みず、ただ自分のために魂の平安と充実のために生きるべきである。」

これらの言葉は深く重く心に沁みわたった。そして気がついたのだ。人を憎むということは、まだその人間や与えられたことに対する恨みに執着しているということなのだ。そこから脱却しないかぎり、心の「平安」もなければ「安心」の道もない。自分の意のままになるのは我が身のみ。そう思えば肚も立たない。人や世間に煩わされているうちは心が穏やかになれない。それを悟れば、もっと自由に生きられるということなのだ。かくして私は醜い「憎しみ」や「恨み」から解放され、みずからに加えていた束縛からも解放された。身も心も自由に生きはじめている。

「憎しみからは何が生まれるか」と掲げた問いに答えなければならない。憎しみが生んだもの、それは…

 ・十五の詩編
 ・何ものにも縛られず執着しない生き方

これは成長と云ってもよいのではないだろうか。どれ、そろりと参ろうか。なんだか腹がへってきた。「天高く馬肥ゆる秋」である。

※参考「すらすら読める方丈記」 中野孝次(講談社)
※「清貧の思想」 中野孝次(草思社)

※「徒然草」 角川ソフィア文庫

※「さだ」……つまずくこと、行き詰まること
2003年10月

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