『性別の明記について』

性の仕切りを取り払って気持ちよく暮らしているが、仕切りを立てられ不愉快なことがある。

先日、この町の図書館へ初めて行った。本を借りるのには、まず利用者カードをつくってもらわなければならない。カード申し込み用紙に記入していると、またしても性別を明らかにさせる項目がある。記入する手が止まってしまった。

大部分の人々にとっては、それはなんでもないことであろう。しかし私のように、それがとても嫌な人間もいるのだ。私は性同一性障害ではないが、現在、「出生時に定められた性」にだけ自分を押し込めることが窮屈になっている。それで性(ジェンダー)から自分を解放し、ひとつの性とその性がもつ理不尽な部分から逃れることで心地よく生きる道を探っている。ところが世間や既存の無意味な慣習が、なかなか私を解放してくれない。無理やり片方にだけ閉じ込めようとして困ってしまう。

図書館の利用者カードを作るのに、なぜ性別の明記が必要なのだろうか。男だから女だから、それがなんだというのか。借りる本に性差別などあろうはずもない。ほかでも(男・女)のいずれかに丸印をつけなければならない場に、たびたび出くわし閉口する。髪を切りに行ったりビデオを借りに行くと顧客リストの記入に(男・女)、商品が当たる懸賞に応募しようとすると(男・女)、本を買うと感想を書くハガキがついており、意見を求めて(男・女)……。どうも腑に落ちない。

これらは単にあちら側の分類上の問題だけであろうと思われる。しかもその分類の方法が旧態依然の男か女かというものである。動物を扱うようにオスかメスかをまず区別する原始的かつ単純な方法が健在なのだ。生活様式も好みも多様化し、個性重視が叫ばれる時代である。それならば男か女かを分けるよりも、本質に迫る情報の求め方をすればどうか。考えてみれば本当に性別の明記が必要な場とはさほど多くない。世の中あまりに性別に囚われすぎているように思えてならない。

話は少しそれるが、東京世田谷区の区議選にMTF(男から女へ)の上川あや氏が出馬した。立候補届け出の席上で係員の説明があった。それには戸籍と異なる性別で届け出をした場合、無効になるかもしれないという条項が含まれていた。説明を聞き終えた上川氏は静かに、しかしきっぱりと「はい」と答え、力強く「女」の文字を丸でかこんだ。その姿をテレビで観て私は感動をおぼえた。弱者の立場から声をあげたいという氏と大勢の仲間たちの気持ちがひとつになり、かくして上川あや氏は上位当選を果たした。選挙活動を手伝っていた親友のFTM(女から男へ)のM君からきたメールに私は小躍りした。快挙である。

立場は違うが私もささやかな抵抗をしている。ある賞に応募する際、その出版社が義務づけていた年齢、性別の明記に対し、「公表いたしません」と書き通称で出した。それで最初からはじき落とされるなら落としてくれという気持ちであった。しかしなんと嬉しいことに一次、二次審査を通過したとの知らせが来た。ここまででも一応快挙である。と思っている。

けれども図書館の利用者カードの件は情けない結果に終わった。性別の明記拒否を申し出ようかと迷ったが、忙しいなか明るく応対してくれた若い女性を困らせるだろうと気が引けた。混雑したカウンターで、それらを拒否する理由の説明をする煩わしさに気おくれもした。はたして申込書は片方の性へと仕分けられ、名乗りたくない本名を自分で書いた利用者カードが交付された。それを手にしてため息をついた。私はまだまだ勇気が足りない。

今度からは力強く、男と女の真ん中あたりにでも○印をつけ、年齢は空白、名前は通称を堂々と書いてみたいものである。
2003年5月
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