『詩を書くことは』

詩はどんなときに、どんなふうにしてできるのかと訊かれたことがある。

はてと返答に困ってしまった。そんなことを意識したことが無いからだ。おまけに私は詩作を生業(なりわい)とするプロの詩人ではないから、その質問に対して、それはね、などと答えるのもおこがましいことだ。しかしながら私は対ヒト几帳面、答を探す努力をしたい。

思いおこせば子供の頃からノートや紙に、ひと塊の言葉を書きとめる癖があった。それらは出てきた言葉を気まぐれに書きとめたものに過ぎない。単なる詩作のまねごとであって、詩を書いているつもりはなかった。中学生になってからはおもに日本の詩人たちの詩集を読みふけり、言葉の美しさの虜になった。そして詩とは手が届かない高尚な芸術であるという認識を強めた。その後、小説や戯曲を好んで読み、一旦は詩から離れてしまった。社会人になって仕事をもつと本そのものから遠ざかることにもなった。ところが仕事用のノートを開けると、驚いたことにその頃でさえ詩のようなものを、あちこちに走り書きしているのだ。

話はとぶが、そもそも詩とは何であるか。むずかしい講釈は専門家にまかせるとして、私は魂のつぶやきではないかと考える。私の魂は昔も今も一貫してブツブツとつぶやきつづけているわけだ。私たちは日々いろいろな感情を芽生えさせるが、それらをためる心の器には人それぞれの許容量がある。その許容量を超えるだけの中身が入ってきたとき、おのずとあふれて流出する。あるいは噴出する。この際の流出、噴出のさせ方は人によって異なる。ある人は身体全体で表現するだろうし、ある人は音楽や絵画で表すのかもしれない。私の場合、それがポツリと出てくる言葉なのだ。しかもそれが出てくるのは感情の昂ぶりが最高潮のときでなく、なぜか鎮静後なのだ。その感情が身体のすみずみまで染みわたって馴染んだ頃、ふと魂がつぶやくのである。それが私の詩なのだ。

どんなときに書いているのかは答えることができない。私にも予測がつかないからだ。「さあ今から書くぞ」ではないということだけは確かである。いつ突然に言葉は飛び出してくるかわからない。掃除中、調理中、散歩中、コーヒーブレイク中、寝起きすぐ、眠りに落ちる直前などさまざまである。急に言葉が噴出してきたら、とりあえず鉛筆を取りに猛ダッシュする。そしてその辺にあるチラシの裏やメモ用紙、なんでもいいからひっつかんで書きとめる。言葉の噴出には二十四時間体制で臨まなければならない。結構大変なのである。

そんなふうににしていろいろなものに走り書きされた言葉は、パンだねのように一旦しずかにねかされる。心を解放の状態で自由に放出させた言葉の羅列を、納得のいくものにつくりあげていくのは何時間かあとの作業になる。題名だけ書きとめていることもあれば、一行めだけをキャッチしていることもある。あるいは最後の一聯や、ヤマ場が先にキマッてしまうこともある。調理なかばの素材を、それなりの料理として客に出せるまでに仕上げるのは真剣勝負である。おそらくそのときの私には鬼気せまるものがあるのではなかろうか。しかし何を隠そう、これが至福のときなのだ。完成したときには、ささやかな達成感を味わっている。

詩らしきものを書いているくせ恥ずかしいことに、私には「現代詩手帖」や「ユリイカ」などの詩誌に載っている詩のほとんどがチンプンカンプンだ。難しすぎてかいもくわからない。しかしコーショーなものが理解できなくても、不自由を感じず自由に詩を書いて楽しんでいる。私が尊敬する「なにわの詩人」東淵修氏は誰にでもわかる詩を提唱する。同感、同感。いくらブンガクテキでもわからなければ何も響いてこないのだ。私も氏と同じく「わかる言葉でわかる詩」を書きつづけていきたい。別に高尚でなくても文学的でなくっても。

それにつけても紙と鉛筆だけで何時間でも遊ぶ私は、なんと安あがりな愉しみをもっていることだろう。詩を書くこと、それは私にとって永久に飽きのこない、壊れないお気に入りのおもちゃで遊ぶようなものである。
2003年5月
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