「竹内浩三という詩人」

買ってはきたけれど、どうしても読了できない本がある。竹内浩三「戦死やあわれ」〔岩波現代文庫 小林察編〕がそれである。

……………… 略 ………………
ぼくは兵隊
風の中
腹の悲しみ
腹のさびしさ
それを云わず
ただ もくもく
最下層の一兵隊
甘んじて
あまんじて
この身を粉にして
ああ うつくしい日本の
国をまもりて
風のなか 風のなか
くゆるなし
くるゆなし

 「筑波日記T」二月二十三日の日記より


この言葉に初めて出会ったのは数年前、終戦記念日頃の新聞記事のなかであった。私は詩を志す者のはしくれとして、美しい文字の配列と言葉に込められた痛烈な想いに衝撃を受けた。漢字かなまじりのやさしい文字使いではあるが、ひもじさ、悲しさ、口惜しさを、国を守るためと淡々と詠っている。その記事で稀有な詩人の存在を知ったのだった。前述の本にある小林氏の解説から要約し、竹内浩三を紹介したい。

竹内浩三は1921年(大正十年)、三重県に生まれる。家は呉服商で、伊勢でも指折りの商家であった。父善兵衛と後妻よしの間には、浩三のほか四歳上の姉(松島こう)がいた。母よしは浩三が十二歳のときに死亡する。十五・六歳で「まんがのよろずや」「ぱんち」などの世相を風刺したまんが雑誌を友人と作成した。十八歳で上京し、十九歳で日本大学専門部(現芸術学部)映画科へ入学する。そして二十一歳のとき在京の友人たちと「伊勢文学」を創刊、五号までを出す。その年の九月、勅令にもとづき半年間くり上げて日大を卒業し、十月一日、三重県久居町の中部第三十八部隊に入営する。

1943年(昭和十八年)、二十二歳のとき茨城県西筑波飛行場に編成された滑空部隊に転属となる。翌年、「筑波日記」の執筆を開始する。同、七月、サイパン島の日本軍玉砕。東条内閣総辞職。同十二月、竹内の中隊は「マタ三十八船団」のうち、日向丸、青葉丸のいずれかに乗船して門司を出港する。途中、台湾の高雄を経て、ルソン島北サンフェルナンド港に到着する。

1945年(昭和二十年)、竹内の中隊は、クラーク基地へ向かう最後の梯団に指定されいたが、猛烈な艦砲射撃に合い、やむなくバギオに向かう。四月、米軍の沖縄上陸開始。八月六日、広島原爆。八月九日、長崎原爆。八月十五日、天皇による戦争終結の放送。

1947年(昭和二十二年)六月、戦死の公報にて「昭和二十年四月七日時刻不明、陸軍上等兵竹内浩三、比島バギオ北方1052高地方面の戦闘に於て戦死」。それとともに白木の箱が、姉・松島こうの元に届く。

わずか二十三年間の短い生涯で、浩三は膨大な量の書いたものを遺している。それは漫画、詩、小説、日記、手紙と多種におよび噴き出すがごとく言葉を書きつづけた。日記の中に詩があったり、手紙の中に小説がはめ込まれていたりもする。浩三は常に誰かに語りかけ、共感しあえる相手を求めて書きつづけた。

しかしながら、これほど書くことに情熱を燃やした浩三が、創作に全力を注げた時期は「伊勢文学」の半年間にすぎない。半年後の出征までに彼は自分が生きていた証を残そうとしたのだ。やがて軍服を着なければならない自分を模索する。ファシズム賛美の詩や文学が氾濫するなか、無名の一兵士、無名の一詩人として、敵とではなく戦争という巨悪に対して戦った。彼は書きたかったのだ。

出征後も浩三は手帳二冊に「筑波日記」を書き綴った。猛烈な訓練の疲れにもめげず、厳しい検閲の中で、豆電球をたよりに綴ったという。その一冊は宮沢賢治の本に埋め込まれ、いつも信じて愛してくれた姉へ送られた。それが姉への最後の贈り物となった。

編者の小林氏はこう結ぶ。
「竹内浩三にとって“生きる”とはすなわち“書く”ことであった。手紙も詩も日記も“書く”という同一の行為であった。彼はその行為に命をかけることによって、自己を地獄の状況から救い出し、人間的真実を守ることができたのである。」

戦争という異常事態での過酷な状況下においても、浩三は子どものままの眼を失っていない。素直な言葉を出しつづけ、書きつづけた。その詩人の命を戦争が奪った。不可抗力により書くことを奪われたことへの怒りとやるせなさ。浩三の無念さに涙を禁じえず、私はこの本を読み進むことができなくなる。同時に“書く”ということの重さが身に浸みるのだ。

 「骨のうたう」

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
……………… 略 ………………

もっともっと書きたかった竹内浩三は遠い国で「ひょんと」死に、骨になってうたうこともできなかった。姉の手に渡された白木の箱は空っぽで、その魂だけが還ってきた。

今日八月十五日、終戦記念日。
現在の私たちの国の平和は、三百万人以上もの無念の死を礎(いしずえ)に築かれていることを忘れてはならない。
2003年8月
※竹内浩三の詩は以下のH・Pで紹介されています。
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/index.html

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