「遁世という生き方(その二)」

前回に続き小松和彦氏の「遁世という生き方」三・四部分の要約である。

三、聖(ひじり)という生き方

僧尼の「世」は「俗世」とは異なる「世」ではあったが、世俗の権力の統制下にあるという点では「世俗」に組み込まれた「聖なる世」であった。そこからものがれ、完全な自由を獲得しようとした仏教者たちが「聖」と呼ばれる人びとであった。

聖たちは山林や洞窟に住んで修行をし、呪術を獲得する傾向が見られた。これら山岳修行の聖たちの集団が教団化し、修験道が形成された。また、聖たちは大寺院の周辺や都市郊外の葬送の地にも集まった。かれらは極楽往生を念じて念仏三昧に明け暮れた。高野聖も、墓守的役割を担った三昧聖も、「市聖」と呼ばれた空也(こうや)もこの種の聖であった。定住的な聖であっても雨露がしのげる程度の粗末な庵に住み、多くの聖たちは寺院の縁の下や軒下などで夜を過ごした。それさえもたない漂泊遍歴の聖も多数いた。かれらは人びとが嫌う死のケガレを扱い、死者のたましいを管理することを強調した。「方丈記」の作者・鴨長明は「発心集」という仏教説話集のなかで、こうした聖たちの生活の様子を描いている。小松氏は玄敏僧都、平等供奉、増賀上人の例を紹介しているが割愛する。(興味のある人は書店や図書館へどうぞ)

世が乱れるにつれ下克上が進み「出世」には困苦が伴い、周りの人びとに振り回されたり哀しい運命に出会う。人生への挑戦心や欲望が萎え、懐疑的になり無常観を募らせるとき、「俗世」の対極にある「遁世」という生き方を彼らは選んだのだ。それはすべてを捨てようとする試みであり、「あの世」へ往生する試み、死ぬために生きる試みであった。

四、西行・長明・兼好──  さまざまな「遁世」

しかしながら、「世捨て人」とか「遁世者」と呼ばれながらも仏教修行へと向かわない人びともいた。自分の理想を実現するための方便としての「遁世」を選んだ人びとである。西行、長明、兼好はその系譜に連なる。かれらは円錐で示される「世」の比較的上層にいる遁世者である。三人に通底するのは無常観で、生まれや時代を反映して三者三様の遁世の軌跡を描いている。

西行……三人の中では最も早い時代の遁世者である。すでに妻子があったが二十二歳で出家する。その契機は友人の死、叶わぬ恋、殿上人(貴族)にはなれない諦めなどとされ不明だが、属した「世」を捨て漂泊の聖となる。しかし西行は出家後もたくさんの「世」を引きずっていく。その一つが「和歌」の道であった。聖となることで詩作のための放浪ができ、俗世では不可能であった貴族との交流も可能となり、それは和歌の道を深めるのに好都合となった。西行の場合、出家遁世は別の世界に入る「出世」の方便でもあったのだ。

鴨長明……幼少期は恵まれたが、若くして父を失って以降は曲折が多く、俗世での栄誉を望み続けた。やっと手にしかけた下鴨神社の禰宜(ねぎ)職が手に入れられなかったとき、「俗世」での「出世」を諦めて出家し「遁世」する。「方丈記」は伏見の日野に方丈の庵を組んで住んだ最晩年に書かれた。貴族政治が終焉を迎え、武士が台頭し戦火が広がり疫病や飢饉が蔓延する転換期であった。滅びゆく貴族社会の文化教養で身を立てたかった知識人の長明が見出したのは「ゆく河の流れは、絶えずして……」の無常観であった。そんな長明は仏教修行には熱心でなく、勝手気ままな仏教者であった。持って生まれた境遇から離れようとする思い、それが出家の動機であった。

吉田兼好……卜部(うらべ)氏出身であるが庶流(分家)であったため神職に就いておらず、中級の宮廷役人であった。出家は三十歳を過ぎた頃で、仕官生活では得られない自由を求め、歌人、知識人として生きるために出家したと思われる。生活は裕福でパトロンもおり所領もあった。兼好は京の都に生成されていた知識人社会に自由に出入りする方法として遁世を選んだ。「徒然草」には切ないほどの無常観はない。彼にとって世の中が無常なのは当然のことであり、それを観察し、喜怒哀楽をユーモアたっぷりに描き出した。兼好は仏教修行や俗世と絶つために出家したのではなく、俗世から離れた外部から俗世を観察するために出家した。彼は現代の知識人に近い存在である。

つづく(※次回は宗祇・利休・芭蕉についての要約と、右近が現代における遁世について考察する予定である。)
2003年6月
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