「遁世という生き方(その三)」

今回も前回と同様、小松和彦氏の「遁世という生き方」五・六の部分の要約である。

五、宗祗・利休・芭蕉――隠者の俗世回避

兼好の南北朝時代から少し下った室町時代にも聖が多くいた。その一方で、境遇からの離脱の手段としての遁世を選ぶ者も続出した。身も心も俗世にある遁世者たちである。詩歌や芸能などの技能に秀でた遁世者たちを、「同朋衆(どうぼうしゅう)」と呼んで身近に侍らす習慣も武士たちに生まれた。そこでは俗世での出身や身分は問われなかったため、その地位に身を置くための「遁世」がおこなわれた。能力さえあれば賤しい身分の者でも登用され、妻子や財産ももった。遁世は生きる方便と化していったのだ。

宗祗はそうした遁世者の一人であった。連歌に長(た)け、相国寺に入り出家する。しかし、その出家は道心とは無縁であったといえる。連歌を通じて貴族や武士と交際し、芸術愛好者のまとめ役として多くの金品を手に入れた。かれの草庵は仏教修行の場ではなく「風流」を極める場、「政治」の場であった。

※連歌……和歌の上句と下句に相当する五・七・五の長句と七・七の短句との唱和(一方がまず詩歌をつくり、それに応じて他方がつくる)を基本とする詩歌の形態。

千利休は堺の商人出身であった。豪商のたしなみとして茶の湯にふれ、魅力に取り憑かれて大徳寺で剃髪する。それは茶道への情熱を示すための出家だった。利休が茶の湯に見出したのは、「俗世」にあって「俗世」を越えるための精神世界であった。茶の湯を介して政治的権力者に屈しない反俗・脱世俗権力的な芸術的世界・観念美の世界を作り上げることであった。茶の湯を「市井の閉居」と言い表すことがあるが、山野の草庵に身を置かずとも「世」を捨て草庵を結ぶ人びとの思いが美化され継承されている。

芭蕉は平和的な近世において俳諧というかたちで隠者の精神を発展させた。仕官としての望みが絶たれ、俳人として身を立てることを決意する。けれどもかれは芸術家になる方便としての出家をしていない。それは文化・芸術という職業が確立されており、その必要がなかったからである。出家はしなかったが、彼は自己の芸術の系譜を西行、宗祗、利休らの中世的な隠者系芸術家の精神伝統の延長上に位置づけた。「無常観」や「わび」をふまえ、「寂莫」「風流」「風狂」を俳諧に特徴づけたのも芭蕉である。風景と心情を統一した表現を目指し、その大先達は西行であった。漂泊、行脚と庵住をくり返したのも西行にならい、俗世に身を置いての「脱世」の方法に、創作の源泉を見出したのである。

六、遁世という知恵

かつての日本の「この世」には、たくさんの「世」があった。そしてさらに「世」の向こう側には、「もう一つの世」が用意されていた。その「遁世」は以下のように多様であった。

1.持って生まれた境遇としての「世」から別の「世」への移行方法としての「遁世」

2.「あの世」へ向かってさまざまな「世」を限りなく捨てていく生き方としての「遁世」

3.持って生まれた境遇としての「世」の限界を超え、新たな「世」をつけ加えるための「遁世」

いずれの場合にせよ「遁世者」は自分たちが属する「世」から離れ、人間観察や自然観察にもとづいて「生きた証」としての「作品」を多く生み出した。「遁世」とは「俗世」にない人間の価値観を生じさせ、多様な「世」を相対化し批判する精神に支えられた世界を醸成することであったのだ。

小松氏はこのように結論し、現代もまた先が見えない不透明さは乱世に向かっているとする。現代風遁世を望む人びとは増えているはずであり、俗世に背を向けた思いを哲学、芸術、趣味への情熱に昇華するとき、その結晶としての作品は、乱世を生きる人びとの糧となるのではないか。しかし現代において「遁世」は可能なのかと、やや否定的なニュアンスで氏は問いかける。

可能である、とだけ答えて鉛筆を一旦置かなければならない。なぜなら四枚目の原稿用紙が埋まってしまったからだ。私の考えを述べることは、またまた次回に見送らなければならない。誠に申し訳ない。
2003年7月
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