「アルバイトいろいろ(その一)」

バスガイドに始まった私のアルバイト体験は、その後いろいろ種類をふやす。就業した順序は定かではないが、思い出すまま書き連ねてみよう。

まずは、家庭教師である。今でいう“カテキョー”であるが、当時は省略せずにそう呼んだ。しかし私の場合は出向くのでなく、生徒が実家に来るという形であった。ということは、その頃から私はすでに寺小屋形式が好みであったのかもしれない。生徒は、就職活動が忙しくなった兄から引き継いだ中学二年の女の子と、新中一の男女三人グループであった。

英語を好きになるか嫌いになるかは、初期学習の指導者次第であるとはよく云われることである。したがって、まずは興味を持ち、面白いと思ってもらえるよう指導には工夫をこらした。休憩には紅茶や菓子でくつろぎ、学校の話などを聞かせてもらった。誕生日には皆で祝った。生徒たちが喜び勇んで来てくれるのが嬉しくて、大学での講義が終わると、その曜日には一目散に京都から神戸まで帰ったものだ。今でも年賀状をくれる子がいる。その子たちが私の誕生日にくれた人形は、大切にしまってある。

演劇活動を本格的に始めてから、往復4時間の通学時間の無駄と体力的負担を感じるようになった。親には当然のように“ひとり暮らし”を反対された。だが、ある日突然、夜逃げのごとく家を抜け出し、私は京都で下宿生活を始めたのだ。そんな形で飛び出したのだから、親に金の無心などできない。それからは精力的にアルバイトをしなければならなくなった。

D大正門前の“わびすけ”という喫茶店では、しばらくの間お世話になった。わびすけというのは“侘助椿”のことで、茶の湯で一輪挿しに生けられる椿の種類である。オーナーでマスターのNさんは、優しい目元の温和な紳士であった。階下は民芸品や工芸品を作る仕事場のようであり、二階が実に味のある“喫茶”であった。外見は特に目立たない古い建物であったが、内部は明治から昭和初期にかけてはやった“カフェ”を彷彿とさせる造りであった。オレンジ色がかった昔風の照明で、店内は明るすぎず居心地が良かった。油の引いてある木の床は歩くたびに音をたて、小学校を思い出させた。一人で来た客はカウンター席に好んで座り、アンティークなスタンドの明りで本を読んだ。

厨房は店の北端にあり、客からは見えなかった。私たちアルバイトは窓口から差し出される注文の品を交替で運んだ。当時はコーヒー、紅茶、ジュース類にソフトドリンク、食べ物はトーストぐらいのものであった。ずいぶんあとで知ったことだが、この店はその昔、D大学の学生食堂の役も担っていたという。“英学校”と呼ばれていた時代のことであろうか、わびすけの歴史も古いのである。

客足が途絶えると、マスターは私たちにコーヒーを淹れてくれた。これがたまらなくおいしくて、とても楽しみであった。一緒に働いていた一つ先輩のMサンが、砂糖ぬきで飲むのを真似て、私も砂糖ぬきで飲んでみたら、その方がおいしかった。以来、私は砂糖ぬき党である。Mサンはコーヒーカップを片手に小声でシャンソンをよく口ずさんだ。彼女はシャンソンを習っているフシギな感じの小柄な女性だった。彼女も私もベルボトムのジーンズを穿き、コーヒーや紅茶をせっせと運んだ。

たいてい夕方から店内は学生たちで賑った。皮張りの重厚な肘掛け椅子に偉そうに座った長髪の学生たちが喧喧諤諤(けんけんがくがく)、議論を闘わせている光景は見慣れたものであった。窓の外を見下ろせばデモ隊が見え、シュプレヒコールやアジテーションが谺(こだま)していた。あの頃は、学生運動が終極を迎える時であった。十年ほど前に京都へ行った際、懐かしい店を訪れてみたところ、改築されて喫茶は一階になっていた。間口の広い明るい店に雰囲気を変え、食事メニューも豊富であった。相変らずの盛業だが、昔のなごりが見あたらないのはチョッピリ残念であった。

毛色の変わったアルバイトとしては“風船売り”であろうか。所属していたD大の演劇サークルにきた求人である。それは木下大サーカス京都公演に附随するものであった。男子は“ぬいぐるみ”を着て愛敬をふりまく役、女子は出店で風船を売るのが仕事であった。当時の性自認は「女」であったから、何の抵抗もなく私は風船売りのところへ廻った。

その風船は、その頃に人気のあった幼児番組“ロンパールーム”で使われていた“パンチボール”の擬い物(まがいもの)であった。腹に一物ありそうな風船屋のおじサンは、本物のパンチボールそっくりに色づけした風船を、水素ボンベで膨らませ、私がそれを売るのである。その風船は柄こそ似せてあったが本物とは似ても似つかぬ材質で、ただの風船であった。したがって、尖ったものが触れれば爆音とともに割れてしまう粗悪品である。(実際、膨らませる時、おじサンは自分でいくつも割ってしまっていた)おもちゃ屋で見た本物は、チョットやそっとで割れる代物ではなかったのだ。

その怪しげな風船を800円で売っていた。今であれば2000円ほどにもなるだろうか。原価は微々たる金額であろうに、あこぎな商売である。しかもこのおじサン、私に風船の売り方を丁寧に伝授した。子どもがいたらおいでと招く。近づいてきたら、すかさず輪ゴムを手首にかけてやり、風船を持たせてしまう。すると子どもは喜び二度とそれを離さない。たいていの親はそれで仕方なく買うのだという驚くべき悪徳商法である。もちろん私はそんな売り方をしなかった。無理じいをせず、値段を先に伝え、納得して買ってくれる人にだけ売った。

サーカス公演中の屋外での仕事では、親しく言葉を交したのは露天商、つまり香具師(やし)、的屋(テキ屋)と呼ばれる人たちであった。かれら同士では、次はどこの祭りに行くのだとか、淀の競馬の話とか、この前の女はどうだったとかいうキワドイことも、あっけらかんと口にしていた。私のことを“女子大生サン”と呼び、リーゼントの兄ちゃんはコーヒーを飲ませてくれたり、腹巻きのおっちゃんは焼鳥を食べさせてくれた。皆とても優しくて面白かった。

着ぐるみ組はテントの中で、サーカスの団員さんたちと親しくなったようだった。私も時々テントに入り、かれらの生活を目にし、空気にふれた。かれらの多くは寡黙であった。かれらには毎日が真剣勝負であり、テントの中で未知の国を築いているかのようにさえ見えた。今でも夢にサーカスがよく出てくるのは、あの時のテントの記憶なのかもしれない。
2004年4月


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