「アルバイトいろいろ(その二)」

学生時代に就いたアルバイトは、まだいくつかある。もう少し書き出してみよう。

京都へ移り住んでまもなく、学校のすぐそばにある中華料理屋で働いた。その店は今出川通に面しており、通学の際、かならず前を通っていた。京都御所と向かい合っているために、店の名は“G飯店”といった。何よりも食事付きというのが魅力で、貼り紙を見てすぐに赤い暖簾をくぐったのだ。店の主は目つきの鋭い、不愛想な太ったおっちゃんであった。

即決で採用され、すぐに働くことになった。店内は薄暗く、陰気な雰囲気であった。食事どき以外は客もあまり来なかった。それでも二階の座敷には、ときどき宴会の予約が学生たちから入ってきた。そんな時、おっちゃんは私を連れて錦市場まで買物に行った。マナカツオという魚の名前を、私はその時はじめて知った。宴会用の食材をしこたま仕入れ、タクシーで店まで帰ると、おっちゃんは次から次へとみごとな料理を作っていった。おっちゃんの作るものは、何でもとてもおいしかった。

忘れられないのは餃子の包み方を親切に教えてくれたことだ。おっちゃんは、左の掌に皮を置き、具を載せると一、二、三で形のいい餃子にしてしまう。右手の親指と人さし指で挟むように一、二、三。それでできてしまうのである。まるで魔法のようであった。はじめは何度やっても変な形になってしまったが、それなりに上達し、私が包んだ餃子も客の口に入るようになった。今でも包むのが早いのは、あの時の成果だなと餃子を作るたびに懐しく思い出す。

おっちゃんは四十くらいに見えたから、当然妻子がいると思っていたが一人者であった。そしてある日、おっちゃんは私に愛の告白をした。それまでも私が好きだと云われていたけれど、冗談だと笑って聞き流していた。ところが本気だったようで、何でも買ってやるからと口説きはじめ、仕事中も私の方ばかりを見つめるようになった。私はそれが息苦しくなり、アルバイトを辞めることにした。おっちゃんは嘆き、私が辞めたら店をたたむと云って拗ねた。そして、おっちゃんは本当に私が辞めて一ヶ月ほどして店を閉め、どこかへ行ってしまったのだ。私のことが原因であったとは思いたくなかったが、少なからず胸が痛んだ。

私が最も長く続けたアルバイトは、“パーティーコンパニオン”である。これは京都市内の一流ホテルでのパーティー会場を中心に、接待係をするのが仕事であった。2時間で2500円というバイト料は、当時としては破格のオイシイ仕事であった。姉から借りたロングドレスと自前のワンピースで、栓抜き片手にあちこちのパーティーをかけずり廻ったものだ。

出向先は一流ホテル以外にも、中小のホテルや料理旅館のこともあった。また、ビール工場の落成記念パーティーや、社員の家族を招待して行われるパーティーにも出向いた。京都国際会議場での学術的な集まりにも行ったことがあった。私たちアルバイトは、派遣会社からきつく言い渡されていることがあった。それは、どんなに勧められても飲食をしてはならないこと、チップを受け取らないことである。チップはともかく、山のようなご馳走を人に取り分けてあげ、自分は食べることができないのは腹ペコ学生にとっては酷なことであった。しかし慣れればそれも何ともなくなった。

その仕事で特筆すべきことがある。オトコ化した今、それを書くことは少しばかり憚かられるがコッソリ打明けよう。それは“バニーガール”をしたことである。場所は関西では知らない人はいない由緒ある宿、皇室もご利用になるあの“奈良ホテル”に於てである。その派遣会社では、“バニー”の要請があった時、衣裳を貸与し希望者を募った。時給もさらにupする。うむ、奈良ホテルなら変な客はいないだろう。よし、いっちょやってみるか。と扮することにしたのだ。

当時は十九か二十、演劇研究所ではガンガン身体を鍛えており、それなりにナイスバディであった。ふだんからレオタード姿で動き廻っていたから抵抗も少なかった。当日、ホテルに着いて衣裳に着換えた。まるで芝居の準備をしているようであった。黒のヒールを履いて出来上がり。“バニーデビュー”である。そのパーティーは、私が出た中で最も華やかなものであった。お客様はお医者サンたち、皆さん上品で誰も冷やかす人などいない。豪華な料理にもあまり手をつけず、静かに談笑しておられるばかりであった。かくて生涯でたった一度のバニー体験は事無きをえた。

所属していた劇団にも求人がよく来た。劇団員さんたちには、東映太秦(うずまさ)の撮影所で端役やエキストラの仕事があった。研究生も、そのおこぼれにありつけることがあったが、たいていは男にである。私にはCMのビデオ撮りの仕事がきたことがあった。同期のSさん(彼女が長崎に住む友人である)と二人、駆り出されたことがある。しかし、それが何のCMであったかを覚えていない。Gパンかパンタロン(!)の裾をめくって水の中に入っていった記憶はあるのだが。

夏にはビアガーデンの仕事も来た。Sさん含む研究生数人で、比叡山ホテルでのビアガーデン開催期間中を働いた。ほかから集められた人たちと一緒に、ホテルの送迎バスで毎日通った。着換え室兼休憩室では、なんだかんだと喋っては笑い、とても楽しかった。だが、仕事となると真剣であった。正社員のウェイターさんは片手にジョッキを三個か四個持っていたが、私たちはせいぜい二個しか持てず口惜しかった。

土日や祝日の夜には生バンドの演奏があった。そのバンド演奏や歌がうまければ、客の目はステージに集まり聴きほれる。そんな時は飲食も一時的に中断され、私たちも手すきになる。それで客と一緒に演奏を楽しむことができた。印象深かったのは、ある女性たちのバンドであった。ヴォーカルのステキなお姉サンは、抜群の歌唱力で“ろくでなし”を歌った。日本ではコーちゃんこと故越路吹雪サンの歌で知られるが、そのお姉サンも負けてはいなかった。彼女もバニーのような衣裳であった。客は皆、釘付けになった。彼女たちは今でもどこかで歌っているのだろうか。

これらアルバイト経験は、シンドさよりも楽しかった思い出として私の心に残っている。賃金を得るために就いた仕事ではあるが、それ以上のものを得たように思える。バスガイドにはじまり、さまざまなアルバイトについて振り返ってみたが、その頃の自分や周りの人たちも一緒に甦えり、タイムスリップしたようであった。

青春の日々は遠くなりにけり。あの頃は夢中であったけれど、どれもこれもが貴重な体験である。だれもかれもに育てられた。感慨深いものがある。
2004年4月


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