「文章は胸で書くもの」

文章の勉強は独学以外にない。ここに辿り着くまでに、通信教育で学びかけたことがある。五年ほど前のことである。

それは実績のあるNHK学園の「文章教室」であるが、恥ずかしいことに、一回めの課題作品を提出しただけで出さなくなってしまったのだ。18000円ほどを払い込んでおきながら、惜しいことをしたものだと今ごろになって後悔している。引き出しに眠っていたテキスト類を出してきて読んでみると、これがとても解りやすい。読めば読むほど放棄したことが悔やまれる。せめて今からテキストだけでも読了してやるぞとばかり、貪るように読みはじめた。

入門・基礎・実践・練成と四段階あるうち、私が受講したのは“実践”コースであった。実のところテキストを読むのはこれが初めてである。あの時は不真面目きわまりない生徒であった。最初の提出から朱筆を加える必要なしとの最高点をもらい、タカを括ってしまったのだ。(その作品がvol.11の『幸福堂のプリン』である)添削延長期間もとっくに過ぎた今、赤ボールペンで重要箇所に線を引きながら、熱心に勉強する私は我ながら滑稽ではある。

テキスト(1)にT先生が「文章を書く基礎」という文を書いているが、その内容がすばらしい。引用、要約で紹介したい。

『文章が書けない理由を、自分は頭が切れないからと、頭のよしあしで片付けようとする人が多いが同意できない。だいいち、頭のよしあしとは、どういうことを基準にするのか。文章とは誰でも、そのつもりで努力すれば書けるものだ。文章とは、むしろ、頭をつかってというより、眼や足をつかって書きあげられるものなのだ。

眼には澄みきった眼、にごりのない眼、温かい眼、冴えた眼があるが、そういう眼をたえず持ち続けたい。そういった眼であってはじめて、風景や出来事を、はっきりとぼやかされずに観察できる。にごった眼には把握できない新鮮なものを、網膜に刻み込むことができるのだ。

また、眼にも肉眼と心眼の二つがある。肉眼と同じように、澄みきった心眼を持つ人には、肉眼では見とおすことのできない相手の心の動きまで洞察できる。情景、人々の心の中も含めてはっきり観察できることは、文章を書くのに不可欠の条件である。明るく澄んだ眼で、ものごとをまっすぐに、底まで見とおす習慣を常日頃から身につけることが必要なのだ。

次に足であるが、〈足で書いた文章〉などということがある。足を動かすことを面倒がっては文章は書けない。とりわけ調査資料の必要な文章は、足を使って資料を収集しなければならない。調査の必要のない文章にも、〈足で書く〉心がけは大切だ。いきいきした眼を持つためには、たえず新鮮な空気に触れ、眼に新たな精気を注入する必要がある。固定した環境のなかだけにいると、心をときめかせるものに出会わず、眼まで涸れてしまうのだ。

(うむ。病弱系の私には、歩き廻って足で書けとは少しばかり苦しい。しかし、このあとT先生は、眼や足よりもっと大切なものがあると結ぶ。)

眼や足が文章を書くのに大切であるが、もうひとつ胸(ハート)がある。胸には意欲や決意、愛情、思いやりなどが宿るが、目や足を生かすも殺すも胸ひとつにある。澄みきった眼で眺めようとしても、胸の中に、ゆったりと落ち着いた温かさ、思いやり、余裕といったものがなければ、ものごとをじっくり観察できない。また、足を働かせるためには、積極的な意欲や愛情が要請される。

文章を書こうとするものにとって、必要なのは、眼と足、そして胸である。この三つは互いに関連しているが、究極的には胸(ハート)が決め手となる。文章を書こうとする場合、書く対象に強い愛情や意欲があるかぎり、あとは書くのだという決意ひとつで書けるものである。』

さすが文章の先生である。まず最初に「文章は胸で書く」ものだとテキストの冒頭で言い切っている。私もそう思っていたが、それは正しかったのだ。センセイ時代には生徒に作文指導をしてきたが、〈何を書けばよいか解らない〉という生徒がいた。〈どんなふうに書けばよいか解らない〉もあった。後者の生徒は表記上のきまりごとや技術を習得すれば、〈楽しんで書く〉までに時間はかからない。ところが前者の生徒は、原稿用紙を前に何十分も考え込み、一行も書けない。熱い思いが眠ってしまっているのだ。

そんな生徒には、いちばん嬉しかったことは何だと問いかけてみる。生徒は記憶を呼び覚ますように宙を見つめ、「少年野球でレギュラーになれたこと」と答える。ではその時のことを私に教えてくれないかと促す。すると彼は「ウン」と頷き、野球少年に戻って鉛筆を動かしはじめるのである。人は誰でも心のなか、つまり胸には嬉しかったことだけでなく、悲しかったことやいろいろな思いを多く秘めている。いや、今という瞬間にも感情は常に動いている。それを見つめてその思いを強めれば、おのずから言葉が出てきて文章になるのだ。

では、思いを強めるにはどうすればよいのか。T先生も、ものごとをまっすぐに、底まで見る習慣をつけ、人やものに強い愛情と意欲を持てと書いている。しかし、これらのことを身につけるのに具体的な妙案はない。やはり人やもの、ものごとに出会うことが最初であろうか。そうすると結局〈足〉で書くというところに落ち着くことになる。それなら私のように自由に〈足〉で書けない者は不利なのか。いやいや、身近な自然、書物、メディアなどに出会いはいくつも求められるのだ。

強い愛情や意欲は持てと言われて持てるものではない。まずは人にでも、ものにでも、何でもかんでもに興味をおぼえる対象を求めることであろうか。それに出会えた時、かならずや凝縮された思いが文章を綴らせる。単調な生活をしている私にも、身の周りや心のなかに題材は山ほど見出すことができる。体力には自信がないが、ハートの熱さは自信がある。これは幸せなことである。いざ、胸にて書かん哉。皆さんも書いてみませんか。
2004年5月


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