「電話嫌い」

私は電話が嫌いである。電話機が鳴ること、受話器で話すことの両方が嫌いなのである。これは今に始まったことではなく、昔からそうなのだ。私の周りには老若男女を問わず〈電話嫌い〉が少なからずいる。なぜ嫌いなのかという私的見解をまとめてみたい。

「電話嫌い」の弁

●電話は突然の闖入者

まずはあの音である。音の種類はずいぶん変化をとげ、音量も下げることができるが、どんなに変わっても嫌いである。びっくりするのだ。機嫌よく何かをしているのに、突然のけたたましい音に、していたことが中断される。それは不愉快きわまりないことである。特に眠っている時に起こされると、私の不機嫌は九合目ほどにも上昇する。(尤も人が当然起きて活動している時間に私は眠っているのだが)何かの勧誘の電話などで不本意に早く起こされた時は、睡眠不足で体調がすぐれず一日じゅう不機嫌である。

そのほか読書に没頭していたり、アジの南蛮漬けを作っていたり、コーヒーを淹れたばかりという時に、誰からかが分からない電話が鳴るとウンザリする。しかし有難いことに最近は電話機も便利になった。ナンバーディスプレイで相手の番号が表示される。知人や友人など登録済みの人たちは名前で表示され、誰からなのかが一目瞭然である。電話機から離れている時のためには「○○さんからです」という音声表示もできるのだ。悩まされていた怪しげな〈ヒツウチ〉には一旦拒否をし、意図せずしてヒツウチになってしまった人には、それを解くための番号が案内され、それでかけ直せば繋がることが伝えられる。くどい勧誘などには受信拒否が設定できる。

これらの便利な機能により、迷惑な電話は激減し、右近庵には静けさが戻った。現在、右近庵の電話はほとんど鳴ることがない。裏山のウグイスや田んぼの蛙ばかりが賑やかである。それらはジャズピアノとマッチし、私の生活を邪魔しない。心地よきこときわまりない。

●「元気?」はクセもの長電話

怪しげなヒツウチや勧誘の電話には自衛措置がとれるが、それができないのが知人からの電話である。私は変り者の電話嫌いかもしれないが、以前も云ったように決して人間嫌いではない。かけてくる人が嫌いなのではない。人と話すのは、むしろ大好きな部類の人間である。では、なぜ親しい人からの電話も歓迎しないのか。それは予期せぬ時にやってきて、私に心の準備ができていないという事情がここでも原因する。夢想したり自分の時間を楽しんでいる時には突然の電話は嬉しいよりも戸惑ってしまい、不器用な私は自分の世界から直ちにモード変換ができないのである。

Tサンとは二十年来の付き合いである。私に何かあれば、まず知らせてほしい友人のひとりである。何を書いても怒る人ではないから、彼女を例に挙げて説明しよう。彼女は遠くもない距離に住んでいるが、数年に一度ほども会えばよいほうである。電話は彼女の方からヒョッコリかけてくることがあった。が、私が自分からかけることは皆無であった。

Tサンの電話は明るい声で「元気?」と始まる。面倒なので元気でなくても元気だと、私は誰にでも答えている。こちらの様子を伺う電話であると思いきや、元気だと知り、すぐさまTサンは「チョット聞いてくれる」と前置きし(その言葉を聞くと腰が引ける)、自分のこと、息子たちのこと、最近ハラの立ったことなどを堰を切ったように話しはじめる。何のことはない。御機嫌伺いの電話ではなく、貯め込んでいるものが許容量を超えそうであるため、私に聞いてもらいたかったのである。

〈聞いてもらいたい人〉に選ばれたことは光栄である。ではあるが、Tサンの話を聞くには心の準備が必要なのだ。なぜなら脱線をくり返したり急に進路変更をして支線を突っ走り、本線に戻るのに相当な時間を要するからだ。収拾がつかなくなっているTサンを、私が本線に戻れるよう導いてさしあげることも度々である。そのうち私は疲れを感じ、時計に目が行く。失礼ながら手を伸ばして新聞を取り、音をたてずにめくっては見出しを読んだりしているのだ。

〈女性の長電話〉と云われるように、女性たちは〈お喋り〉が好きである。しかし私は女時代から女性特有の会話が苦手であった。面白くないのである。女性たちが好んで話す話題には興味を惹かれるものが少なかった。たいてい夫や子どものことであったり、学校のことや近所のこと、人の噂話も多かった。それらは退屈なばかりであり、苦痛でさえあった。私の脳は、その頃からオトコ化していたのかもしれない。それは私側にある特殊な事情であるかもしれないが、とにかく〈不意討ち長電話〉は御免こうむりたいものである。


電話嫌いである主な理由は以上であるが、Tサンのことをもう少し語ろう。彼女はとてもいい人である。面倒見もよく人に好かれる。はた目には、さぞかし友だちの多い人であろうと映るが意外や意外、Tサン曰く、友だちは私だけなのだという。誰とも長くは話がもたず、私だけが唯一〈会話の続く人〉であるのだという。「なんでやろ」と訊くので「話が長いからやで」と思いきって答えてみた。「せやろか」(「そうだろうか」の意)とTサンは真面目な声で云った。全く気付いていなかったようだ。

ガスメーターの検針員さんがノートパソコンを使っていたからと、「チョットおせて」(「教えて」の意)と家の中に招き入れ、30分ほども拘束してパソコンを教授してもらったり、エステに行って施術を受ける間じゅう、私のことを微に入り細に入り美容部員さんに話しつづけたというTサンは、〈これぞテンネン〉という人である。だから憎めず好きなのだが、これらの行動や長話は、客であればこそと耐えてくださっていることに気付いていない。一般の人なら次回から逃げようと思うにきまっている。

Tさんには、ついでに私が本当は電話嫌いであることも伝えた。長い付き合いで初めて口にできたのである。それからTサンは電話をかけてこなくなり、代りにハガキをくれるようになった。ハガキを読むのには10秒ほどあればよいので助かる。もちろんTサンと話すのが嫌なのではなく、話し相手を辞退したのではない。電話を介して語り合うことが好きでないだけである。それを正直に言ったまでである。

〈人と話す〉ことは人間関係を築くうえで土台となるものだ。遠く離れて不可能な場合は仕方がないが、言葉を交すには、できれば相手と目を合わせていたい。表情も感じとりたい。自分のことを聞いてほしい時には充分に受けとめてほしい。聞いてあげる時には私の側に余裕がなければならない。「さあ話すぞ」「さあ聞くぞ」の時間的、精神的な準備が必要なのである。あわただしい会話のやりとりには実りが少ない。電話はあくまで日時を決める手段として手みじかに済ませ、食事をしながら酒でも呑んで、ゆっくり語り合いの醍醐味を味わうのが好きである。

Tサンからは最近ハガキが来ていない。三年ぶりに食事でもしながら語り合おうか。どれ、私の方からハガキを出してみるとしよう。「この『ひとり言』を読んでも怒らないことを願っています。恋愛詩「せるしお」に続き、友情出演ありがとう」と書き添えておこう。
2004年6月


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