「元祖『水無月右近のひとり言』(その一)」

今日は「ひとり言」のルーツとなっている「水無月右近の独り言」という文をご紹介しよう。

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「水無月右近の独り言」
              「FTM日本」33号より抜粋
  ― 私の場合 ―

いつも私の詩を読んでいただき有り難うございます。少しのお時間、私の独り言にお耳を傾けていただけましたら幸甚です。

私は雇われ講師を経てその後二十数年間、自分で英語塾を運営してきました。控え投手も代打も居ない寺子屋塾ながら生徒は増える一方で、我武者羅に働き続けた日々でした。それが祟ったのか六年前「難病」を発病しました。総称して「膠原病」と呼ばれるもので自己免疫疾患の一種です。病気の詳細については省きますが、これは「完治しない病気」で、以後私の生活は一変してしまいました。

仕事量を減らすべく新しい生徒は取らず、昨春やっと最後の生徒を送り出し、晴れて憧れの「自由な生活」を手に入れました。しかしうまくいかないもので、自由な時間を手に入れた時、自由に動ける体を失っていました。現在、幸い病気は鎮まっている「寛解期」にあります。治療法がまだ確立されていないため、病気が活動する「増悪(ぞうあく)」や進行を抑えることが重要で、自然環境豊かな所に転居しました。ほとんど外出することもなく、目の前の山々を眺め、庭を歩きまわり、花やハーブ、野菜を育てる日々です。体調の悪い日はベッドでおとなしく本を読んだり、詩や文を書いています。それもできない日はあきらめて目を閉じ、夢想や空想を楽しんだりしています。

発病当時、心臓、肺、腎臓、関節のさまざまな症状に苦しみ、ベッドから出られなかった時に私の中の「男」が目を覚ましました。治療のため服用していたステロイド剤の副作用で、どんどん毛深くなったのです。同じ病気の女性たちはそれが悩みだったのですが、私はとても嬉しく思えたのです。思春期の頃から私の中で眠っていた「男」願望が、それで完全に覚醒させられました。しかし「男」に目覚めたときには、男の体を作ることができない状態になっていました。うまくいかないものですね。

私にとって恐らく人生は七十年、八十年ではないのだろうと知った時、限りある命ならば生きたいように生きるべきだと考えました。人を育てるという仕事に最も精力的な時期を費やしたあと、今後は自分のために生きてやらなければと気付いたのです。そんな時、病床で見ていたテレビで虎井さんのことを知りました。そして著書を読み、「FTM日本」の読者になりました。こうして皆さんの仲間入りをすることになったのです。

膠原病患者にとってステロイドホルモンは命の綱です。症状により他の薬も加わります。私は一生それから解放されることはなく、副作用にも悩まされることでしょう。現在は薬の維持量は減り、毛深くもなくなり男らしさは消えました。定期的に血液や内臓のチェックをしながら病気と共存の人生です。それでも少しでも元気でいたい、逞しくありたいと願い、体調の良い時は筋力トレーニングを怠りません。その成果か肩幅は広く胸は厚くなり、腕は太く筋肉質になりました。弱い体でも鍛えればそれなりに逞しくなるものです。

私はFTMTVだと自認しているので服装にはこだわりがあります。シャツやネクタイは自分の体のサイズに合わせて誂え、スーツ選びには妥協しません。美しく男装することは私の喜びであり生き甲斐でもあります。私は細身で乳房はもとより小さめです。それでもできればアンダーベストを身につけることなく扁平な胸であればどんなに良いかと思います。しかし私の体には男性ホルモンも外科的手術も加えることができません。

発病後しばらくは弱い体になったことに地団駄を踏み拳を打ちつけ悔し泣きをしたものです。仕事を辞めれば途上国でボランティア活動でもして人生の後半を送ろうと考えていましたが、その夢は泡となり消えました。なんで私がと神を呪いました。健康な体を取り戻せるなら何もいらないとも思いました。しかし嘆いても願っても、時間も健康な体も戻りはしないのです。それならばその自分を受け入れて、残された人生で何が遺せるのかを考えるべきなのだ、ようやく私はそう思えるようになったのです。

私というちっぽけな人間が生きた証を遺したい、私の周りの関わり合ったわずかな人々にだけでも何かを遺してこの世を去りたい。その気持ちが「書く」ことに辿り着かせてくれたのです。かくして水無月右近の登場となり、数々の詩が生まれました。昨夏より今春にかけて骨身を削るように初めての小説も書き上げました。「性」に関する記述では、虎井さんの暖かいご協力もいただき、282枚の長編が完成しました。「透けてゆく人」という題のその小説は、揺れ動く性を持つ清冽な人間と、その人に尽くす若い女性の純愛物語となっています。これを一番読んで欲しいのはFTMの皆さんや理解者の方々です。

制約だらけでほとんど家で静かに暮らす生活の私に、与えられたただ一つの「おもちゃ」は原稿用紙と鉛筆です。それは私が子供の時からずっとずっと一番欲しかった飽きることのない「書く」という玩具だったのです。うまくできているものですね。人生捨てたものではありません。これからも私は遊び続けたいと思います。

さて最後となりました。内蔵及び全身性疾患で障害を持つFTMの皆さん、ひ弱であると嘆くなかれ。心、こよなく男であれ。魂、果てしなく強くあれ。そして限りなく優しく、繊細であれ。我らの特権、鋭敏な感性さらに研ぎ澄まそう。男らしさ、ますらおぶりとは肉体のみにあらず。我らには強靭な精神を鍛え上げる道が残されている。

からだ病める同志、こころ病める同志、すべての病める同志たちよ。できることなら悩むなかれ。嘆くなかれ。頭を上げ、ゆっくりと歩もうではないか。よくぞこの世に生まれけり。そう感じる瞬間を、幾つもみずからの手で掴もうではないか。人生必ずや薔薇色なりと信じたい。それでは皆さんご機嫌よう。

      2002年7月
                    水無月右近

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2002年の夏、私はとても前向きであった。「透けてゆく人」を投稿し、結果待ちをしている時でもあった。33号に掲載された拙文に対してメールや手紙をもらい、嬉しかったことを覚えている。ところがこの直後に私の人生が狂いはじめ、ひどい鬱に陥ることになる。あんな立派なことを云わなければよかったと後悔をしたものだ。

片づけをしていると、懐しいものがよく出てくる。36号(2003年4月)では若いFTMさんへの警告めいた文を投稿している。それは次回に掲載するとしよう。ともあれ33号の「水無月右近の独り言」は現在の「水無月右近のひとり言」のルーツとなっている。
2005年4月

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