「『ひとり言』百回御礼」

「水無月右近のひとり言」も、ついに百回を迎えた。
2002年11月から2005年4月までの2年6ヶ月にわたり、書きも書いたりというところであろうか。服喪中につき、めでたくと云えないところはツラいところである。

「ひとり言」を書きはじめた頃には正直なところ、これほど膨大なページ数になるとは思っていなかった。すでに書いたとおり、このサイトは恋愛詩を公表するのが意図であった。文はアソビ心というかオマケ的な存在として加えたのだった。ところが私は文を書くのが三度の食事より好きときている。いざ書きはじめると、これが面白くてたまらない。まず自分が完全にハマってしまったのである。何ごともそうであるが、自分が一番愉しいことが大切で、それを皆さんに喜んでいただければ、これほど嬉しいことはない。

サイトを訪れてくださる皆さんには、ひいきにしてくださっているページがあるようだ。「ひとり言」支持者の皆さんは私が書いたことに共感したり、驚いたり笑ったり(本人はいたって真剣に書いているのだが)してくださるようである。そのようにメールでお知らせいただくと嬉しくて、次は何を書こうかと心が逸るのであった。私はムツカシイ人間と思われるのか嫌われ者なのか、皆さんが考えておられるほどメールをいただかない。が、打てば響くという感じで「ご意見・ご感想」を頂戴した時は誠に嬉しいものであった。

題材にはこと欠かなかった。単調な右近庵での生活ではあるが、身のまわりには書きたいことがいくつでも転がっている。私の頭の中にも種々雑多にいろいろなことが雑然とあり、何かしら書くことは常にあった。したがって書くことがなくて困ったという覚えは全くなかった。少し高尚なことを真面目に考えている時は硬めのものを書き、能天気にのんびり過ごしている時は、猫だアジだネズミだモグラだ、散髪ぎらいだの電話嫌いだのと軽いことを気楽に書いて愉しんでいた。“こんなもの”と思いつつ、恥ずかし気もなく書いてはupをくり返した。

文を書くのは三度の食事より好きであると先ほども云った。「ひとり言」を書く愉しさは、とりもなおさず文を書く愉しさなのである。シロウトなのに(とは人は云わないが)よくそんなにスラスラと原稿用紙に何枚も文が書けますねと云われることがある。とりあえず「ハイ」と返事をし、「思ったことをそのまま書いているだけです」と付け加える。大変でしょと云われることもあるが、ちっとも大変なんかではない。構えず気取らず、思ったことを愉しく書いているだけである。いい文を書いてやろうとリキむと、たちまち行き詰まって失敗する。No.100を書くにあたり、最終回なのだとリキみかけたが解除した。鯱(しゃちほこ)張ったとて仕方がない。いつもの調子で書くことにした。これが愉しいのである。

過去の文をscan(ざっと見る・読む)してみると、こんなものも書いたなぁと懐しく思い出される。はじめは原稿用紙三〜四枚で収めようとしていたが、しだいに長くなり、いつしか平均六〜七枚になった。読むのに疲れるほど長くなってはならないので、その範囲を守ろうとしたが、八枚、九枚になってしまったこともある。嫌にならずにいつも完読してくださった皆様には感謝したい。

No.55の「楽しかった“ひとり言”」は、書きはじめてちょうど一年めのものである。つまり一年で55話を書いたのだ。よく書いたものである。今はじめて明かすが、あの時、一年というキリのいいところで「ひとり言」を終了しようかと迷っていたのである。次のNo.56では「一周年を迎えて」という長い文を書いている。これはサイトを運営して一年になるにあたり、全体を振り返ったり皆さんに感謝したりしている。その後も結局「ひとり言」が終了しなかったのは、ひとりで行った長崎のことが書きたかったからだ。No.57〜No.59まで「長崎は今日も晴れだった」シリーズが続くが、これで持ち直したのである。長崎シリーズはNo.64〜No.67にも出てくるが、旅が大好きな私は旅さえすればいくらでも書けるのだ。紀行文は大好きなのである。

一年で55話、その後の一年半で45話を書いたことになるのだが、この二年半は私にとってジェットコースターのような日々であった。No.84の「創作は愉し」をupしてHiroshiは一ヶ月後に他界した。No.85の「“新たなる道行き”に出発」は彼の急逝後二ヶ月で書いている。いま思えばそんな時期によく書けたものだと驚く。“見切り発車”と文中で云っているように、まだ頼りない自分が書けるものかどうか分からぬままにサイトに戻り、「ひとり言」も再スタートした。その後、No.86にはHiroshiの「仏壇を買う」話を書いている。さすがに以前のように毎週は書けなかったが、スロウペースで書きつづけた。長編小説の連載にも心血を注いでいたので、それはやむをえないことであった。

No.1〜No.84までをHiroshiがupし、No.85から彼はこの世に居なくなった。No.1を二人でスタートさせた時には隣に座っていた人が居なくなってしまったのだ。しかし私は彼に云ったことがある。「『ひとり言』は百回まで頑張るからね」と。なぜなら彼こそ一番の「ひとり言」ファンであったからだ。書けている私を彼は喜んだ。険悪になってしまい、会話がなく、鬱にもなる私が愉しく書いた「ひとり言」の原稿を差し出すと、表情は変えないが喜んでいたのだ。そのことを私は彼の死後、彼が遺したノートによって知らされた。

結局この話になってしまった。とにかく、ようやくNo.100まできてHiroshiに約束したことを守ることができた。「よう頑張ったな」と誉めてくれているに違いない。声も届かず、姿も見えず、ぬくもりも感じることはできないが、先ほどまた天井で音がした。こうして彼は嬉しいときに息吹を伝えてくる。私の生活のはしばしに、彼は存在を表してくれるのだ。

ここまで歩くことができたのは、皆さんのお陰である。読んでくださるから書きつづけることができたのだ。ふたたび感謝とともに「水無月右近のひとり言」を終了させていただく次第である。長らくのご愛読有難うございました。

2005年4月

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