「右近庵の化粧直し」

わが右近庵は老朽化はなはだしく、あちこちに具合の悪い箇所がでてきた。住んで七年めだが築年数は三十年にもなるから無理もなかろう。私は住む家にこだわりがなく、お洒落に住むという柄でもないが、必然性に迫られて補修工事をすることになった。

それというのは雨もりであった。心配無用。バケツや洗面器を置いて雨を受けるといった漫画に出てくるような状態ではない。私はジプシーのように家の中のいろいろな所をさまよって寝るが、このところ一階和室で寝ていた。布団に寝て天井を見ると、なんとシミができているではないか。そのシミが生き物のように少しずつ広がってきたのだ。これはマズイ。和室の上は二階のベランダ部分である。そこの防水が効かなくなっているのだ。

ベランダとかバルコニーと云うと驚かれるかもしれない。わが右近庵は、なぜか「浦の苫屋の秋の夕暮れ」ふうだと思われるようである。つまり茅葺きの屋根か何かで、夕餉の支度をする煙が一すじカマドから立ち昇り、軒下にはアジが干してあるような鄙びた家屋だと思われるのだ。それはおそらく、家の裏手の山々や棚田の風景のせいであろうか。しかし皆さんの想像に反し、本当は「南に向いてる窓をあ〜け」ふうなのである。山ばかりで海は見えないし、エーゲ海ふうというのは云いすぎであるが、右近庵は白の鉄筋コンクリート住宅なのだ。

鉄筋住宅は塗料が劣化するとヒビ割れができ、建物全体から雨水が浸み込んでしまう。そろそろ塗り替えの時期がきているので、それも頼むことにした。化粧直しをするなら表玄関の石段や、ドアまでの小道もやり直したい。なぜならそれらのコンクリートも劣化して割れ、玉砂利がポロポロと取れてくる。雑草の根も割るのを加担している。石段にいたっては、あちこち割れているため凸凹がひどく、往き来するにもつまずいて転びそうになる。回覧板を持ってきてくださる方がケガをしては申し訳ない。

玄関(靴を脱ぐ所)も二階ベランダの真下にあたるため、そこの天井の隅にもシミができた。かなり目立ってみっともない。そこから続く廊下の天井の壁紙を新しく貼り替えてもらうことにした。あとはペンキが剥げているガレージも塗り直してもらおう。これだけのことを頼んだが、こちらの概算よりもはるかに安い金額で請け負ってもらえることになった。契約を結ぶと翌週から職人さんがやってきて工事が始まった。

まずは表玄関である。古い門扉を取り外し、石段を叩き割る。玄関ドアまでの通路部分も壊していく。いわゆる〈ハツリ〉という作業である。ガツンガツンと叩く音が聞こえていた。この部分を担当する二人の職人さんは、暑いなか汗だくの作業であった。コンクリートを流し固める都合上、工事の進行は天候に左右された。雨が続くとかれらは姿を見せず、晴れるとやってきて黙々と作業を進め、そして終了した。石段も通路もきれいに塗り固められ、門扉も新しくなり、右近庵の〈顔〉である表玄関が完成した。

玄関と並行してベランダの防水工事も始まっていた。私は明け方に眠りにつくが、午前九時や十時に、ドスンドスンという音が真上でして起こされる。何人もの男たちが歩きまわり、機械音が響いてくる。これはたまらんとばかり、そんな時は布団をズルズル引きずって居間へと移動する。防水工事も雨天には行われず、晴れた日にドッと人が来て、ドッと去っていった。作業は分散して進行し、最後は通気孔の働きをする高さ30cmほどの筒を二ヶ所に立てて完成した。

外壁塗装工事は期間の中ほどに行われた。足場を組む人たちがサッサと仕事を終えたあと、建物全体がシートで覆われた。(これを「養生をかける」というそうだ)塗装は一日で終了し、そのあとにはベランダの手すりや雨戸を塗る若い人が一人でやってきて一生懸命に塗ってくれた。真面目に働く青年を見ていると清々しい気持ちになった。スッポリと覆われた日は、サッシのガラス戸もみなビニールシートで目張りされ、猫たちが出入りできなかった。表へまわって猫用の出入り口だけはテープとシートを外して確保してやった。

最後は室内の壁紙である。壁紙といっても天井だけであるが、一階全体の天井と同じ模様の白いものにした。これもベニヤを貼る人がまず来て、そのあと上に壁紙を貼る人がやってきて仕上がった。このように、住設会社に頼んだ仕事は、いろいろな専門職の職人さんたちに発注され、おのおのが担当する箇所を、かれらは汗だくになり完成させてくれた。匠という言葉があるが、伝統芸術に限らず巷で活躍する大工さんや職人さんたちの巧みなわざに、脱帽することしきりであった。

かくして右近庵は化粧直しを無事に終えた。〈馬子にも衣装〉と云うが、〈老朽住宅にも化粧直し〉である。真白から少しグレーがかった白に変え、雨戸や手すりは茶色から深いグリーンにした。門扉はドアに合わせて黒にした。この通りでは最も古くさかった右近庵は、たちまち英国風にヘンシンした。しかし石垣や塀は元の和風のまま、表側の前栽も和風であるから和洋折衷である。それもまたよしである。オーナーによって表情を変えられるのも家にとっては楽しいことではなかろうか。

前にも書いたが、そもそもこのような古い住宅を買ったのには理由がある。家を買ったのではなく庭を買ったのだ。背景の山々や棚田の眺め、要するにここの自然をまるごと買ったようなものなのだ。そこに古いコンクリート住宅がついていたのである。購入時には家の中をブチ抜いたり、台所をそっくり入れ替え、壁紙を貼り替えるなどして大々的なリフォームをした。しかし手を加えだすとキリがない。そこそこで手を打ち、古くても直す必要がない部分はそのままにして住んでいる。〈住めば都〉という言葉があるように、住居というのは〈住めば城〉である。いろいろな不満はあっても住むほどに愛着がわくものだ。

右近庵が〈終(つい)の棲家〉となるかどうかは分からないが、今のところ動く予定はない。身体がきかず手入れも思うにまかせないが、可愛がれば可愛がるほど成長し、愛すれば愛するほど輝きを見せてくれるのは、人間も家も同じである。また、傷んだら直しながら少しでも長くというのも人間と同じであろうか。

今夜もカエルは合唱し、山の空気はひんやり冷たい。夏の夜の涼しさこそ右近庵の醍醐味である。風邪をひかないようにしなければ。
2004年7月


前のひとり言 次のひとり言

ひとり言 INDEXへ