「言葉は武器でなく」

「ひとり言」では私の身辺に起こる雑事や雑感を述べている。これまで時事的なことには言及しないでいたが、このたびの〈小6女児殺害事件〉には衝撃を受け、諍いのきっかけとなった〈言葉〉について皆さんとともに考えてみたい。

インターネットを使ったコミュニケーションが子どもたちの間で広まっている。公立学校のほぼ100%でインターネットが利用され、パソコンが授業に取り入れられることは必然である時代になった。家庭においても常に接続できる環境が広がり、今や小学生の60%以上がインターネットを経験しているのだという。ホームページづくりやメールのやりとり、〈チャット〉での会話も盛んであるらしい。

私はチャットなるものに参加したことがない。知らない人たちと、その場かぎりの会話をしたいとは思わないからだ。そのチャットを小学生、とりわけ女児たちが楽しんでいるとのことだ。ハンドルネームで気軽に参加し自由気ままに喋ることを楽しむのは、大人たちだけでなく子どもたちにも人気がある。しかし、この遊びには思わぬ落とし穴がある。その穴にはまってしまうと〈百害あって一利なし〉となってしまうのだ。

チャットに限らずインターネットでの言葉のやりとりには注意すべき点が多々ある。それらはネット上のエチケット(ネチケット)とされ、大人の間ではそれらを心得たうえで、やりとりがおこなわれる。だが、このやりとりでは大人でさえも言葉、説明、表現力の不足により誤解をまねくことがある。意識せずして送った、たった一言、たった一行が取り返しのつかない結果をまねくことにもなりかねない。

私は人とのコミュニケーション手段としての言葉には気を使っているつもりである。つもりではあるが反省することも多い。メールを送ったあとになって後悔することがよくある。ココは誤解されるのではないだろうか、ココは気を悪くさせたのではなかろうか等々。ディスプレイに現れる無機質な文字には表情がなく声もない。悲しい哉、送信者の意図とはまったく別の方向へ流れてしまう場合もしばしばあるのだ。

大人ですらネット上の会話は難しいのであるから、小学生同士においては尚のことである。一方が相手を攻撃するなど否定的な言葉を吐いたとなれば、相手は脅かされたことに怒りをおぼえ〈一触即発〉の状態になる。互いにいつ感情を爆発させるかわからない。子どもたちは人格が未成熟であるため、争いになっても自分たちの言葉で問題解決を図る能力が不足している。したがって仲良しの二人が突如として激しい敵対心をもち、憎み合う関係に発展する危険性を孕んでいる。

さらに悪いことに現代の子どもたちは、テレビ、映画、ゲーム、コミック、本などで〈簡単に人を殺す〉という環境に晒されている。今回の事件に限らず誰かに憎悪の感情をもった時、現実と非現実を混同し、短絡的に過激で非道徳的な行動に走ってしまうのである。悪口を言った言わない、書いた書かないくらいの些細なことで、人を殺そうと真剣に考え、いとも簡単に小学生がそれを実行してしまった事実を、私たちは厳粛に受け留めなければならない。

若年層による陰惨な事件が起こるたび、当座はマスコミが騒ぎ評論家たちも喋り続けるが、いつのまにか忘れ去られ根本的な改善策は未だ何ら示されていない。少年法の見直しが叫ばれ、罪を犯した少年少女への野次馬的興味は繰り返し沸き起こる。そのたび〈心の闇を解明する〉という極めて曖昧な言葉で表わされ、結局はその子がもつ特殊性によるという形で終わっている。

私は専門家ではないから、罪を犯してしまう子どもたちの心理を医学的に考察することはできない。しかし〈子ども〉から〈思春期〉を経て大人になってゆく少年少女たちと接してきた経験から、確証を得たことがある。それは、〈キレやすい子は言葉を持たない〉ということである。かれらを取り巻く人間関係、特に友達関係において感情がもつれた時、言葉を持たない子は感情に押し流され翻弄される。何が何だか自分で分からなくなるのだ。

「ひとり言」No.78でも述べたが、私たちは〈言葉〉で考えている。世界じゅうの人々は自国の言語で思考している。私たちは日本語で考えているわけである。言葉でものごとを考えたり感情を整理したりするのに、肝心の言葉が貧弱であればそれができない。だから動物的な荒々しい行動で自分を表現しようとする。それは哀しいことである。

私はセンセイ時代、問題をもつ生徒とは一対一で徹底的に話し合った。説教をするのではなく、まずはその子の言葉を根気よく待った。黙ってただひたすら待つのだ。長い長い沈黙のあと、やがて生徒は訥々と話しはじめる。少い言葉を総動員させ、かれらは自己表現しようとする。こちらが多くの言葉を出すのでなく、ただ待つことで言葉による表現を促したのだ。喋り終わって私が理解したことが分かると、生徒は安堵し笑みさえ浮べる。人は皆、言葉で自分のことを正確に伝えることができたとき、穏やかになるものだ。

言葉をふやす方法としては読書を取り入れ感想文を書かせた。文庫本を注問し、グループごとに興味をもちそうな本を読ませた。驚いたことに本というもの、小説というものを初めて読んだという子がいた。その子もキレやすく、年令より幼い考えをもっていた。はじめは嫌がっていた生徒たちだが、本の面白さに魅せられ、感想文もうまくなり、作文は上達した。自分を伝えるためには言葉を使え、その言葉をふやすためには本を読めと言い続けた。

ところが神戸の事件や今回の佐世保の事件でも、罪を犯した子どもたちは文章が得意であるらしい。Sという名で送られた犯行声明文には文学的香りすら漂っていたし、加害女児も小説家になりたい少女であるという。だが、かれらに影響を与えた読みものはホラー、ミステリー小説や、その類のテレビ番組であると思われ、それらのマイナス面だけを自身に取り込んでしまったようだ。人の心の温かさを教える本を読んでいなかったにちがいない。倫理観が確立できていない段階で、残虐なシーンがあるエンターテインメント系書物や番組に没頭することは非常に危険なことである。奇抜さ、残酷さなどに感化される青少年への悪影響を考えれば、それらを創り出す側に対する規制も考えるべき時を迎えているのではないか。

「はじめに言葉ありき」と旧約聖書にある。その深い宗教的意味について説明する知識をもたないが、私には〈言葉〉に関しての信念がある。それは言葉は人を救うためにあるのだということだ。言葉は武器ではなく、まして凶器にするものではない。決して人を傷つけるためにあるのではないのだ。言葉での傷つけ合いが惨事を招いたことは誠に痛ましいことである。温かな言葉を出す温かな心が育っていなかったのだ。この国が年端もいかぬ子どもに人を殺めさせる国と化したのは、言葉を軽視する風潮が蔓延していることと無関係ではない。言葉には言霊が宿る。人の心も魂も精神も宿る。それらを軽んじるから人の命までも軽んじるのだ。

倫理や道徳が崩れてしまったこの国の腐敗は、何をもって食い止めることができるのだろうか。情けない国になり果ててしまった。
2004年6月


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