「長崎は今日も寒かった(その二)」

雪がなかったことにひとまず安心はしたが、深夜のテレビでは相変らず翌日も厳しい冷え込みや降雪であると報じている。仕方がない。その時はその時だ。雪道になれば防水の靴を買って歩けばよい。本場中国での正月の様子を画面で観たあと、無理に眠ろうと電気を消した。しかし習慣というものは一日では変えられず、結局は朝方まで眠ることができなかった。夜明けが近づいた頃、ようやく眠りについた。

翌朝、目ざめるとすぐカーテンを開けた。どこにも雪は見あたらない。ヤッタ!これなら大丈夫だ。すぐに身仕度を整え、ホテル内のレストランで朝食をとった。その日の行動は決めていた。まずは再び“大浦天主堂”“グラバー園”、それから南山手、東山手近辺の坂道を歩き回る。夕方から夜は“ランタン”のイベントを観るというものだ。(地元の人びとは、この祭りを“ランタン”と「タ」にアクセントを置いて呼んでいた。)

雪は降ってはいないが冷え込みが厳しく風が冷たい。前回は電気軌道(路面電車)で行ったが、なんせ私は“病弱系”、体力と時間の節約でタクシーに乗った。電気軌道では3つめの電停までの距離というのは、車ではアッというまに着いてしまうものであった。大浦天主堂への坂道は、きのう登ったように記憶に新しい。前方に見える白い教会は、冬空の下、薄日が射して美しい。誰が造ったのか、サングラスをかけた雪だるまが迎えてくれた。私の仲間だなと笑ってしまった。この教会の正式名が「26聖殉教者天主堂」であることはすでに知っていたが、この旅では“26聖人”についても知識を得た。

長崎にキリスト教が伝えられたのは1567年、その2年後には最初の教会が建設され、1500人の信徒がいたとされる。1570年にポルトガル貿易港として長崎港が開港されると、長崎は日本におけるキリスト教の中心地となる。しかし豊臣秀吉の「キリスト教禁止令」が出されると、信者たちは迫害された。1597年(慶長元年)、京都・大阪で捕手は聖堂を襲い、神父をはじめ主だった信者24名を捕縛した。ルソンよりの使徒ペドロ・バウチスタ神父ほかの外国人6名、3少年を含む日本人が20名である。最年少のルドビコ茨木は、わずか十二歳であった。

正月の3日に京都を出て長崎へ送られる道中、首縄をかけられ、うしろ手に縛られ、こづかれ、引き立てられた。吹雪に明け暮れる海岸沿いの道を、皆そろって殉教の光栄に授かろうと歩き続けたのである。2月5日、刑場が設けられた西坂に着き、人びとの目の前で26本の十字架にはりつけられて殉教する。その後も西坂では殉教が繰り返され、記録にあるだけでも600人以上と云われている。

その後、信徒の多くは潜伏して信仰を守り通す。1865年(元治2年)、信徒たちは完成したばかりの大浦天主堂を訪れ、プチジャン神父に信仰の秘密を告白する。二百数十年もの間、信仰を守り続け秘密を明らかにした出来事は世界でも特異な例とされ、「信徒発見」と呼ばれてカトリック史に記されているという。今回の訪問では結婚式は行われていなかったので、聖堂内に流れるテープの説明をじっくり聴いた。

天主堂を出るとグラバー園への道が続く。これも二度めであるから慣れたものである。お気に入りの“昇るムーヴィング・ウォーク”(当地では斜行エレベーターと表示)にも喜々として乗った。それに乗って眺める景色は素晴しい。その景色を見ていると「また来たぞぉ」という気がして嬉しくなった。園内では初めての訪問で見落とした所や展示物を、時間をかけてゆっくり見ることができた。公開中の映画、「解夏」(げげ)の長崎ロケの様子も展示されていた。

グラバー坂を下りながら、みやげもの屋をのぞくのは楽しい。ステンドガラスを使った飾りものや、“びいどろ”などのガラス製品が多く目に入る。“べっ甲”も目につく。しかしやっぱり圧倒的に“カステラ”である。その坂には「文明堂」「和泉屋」「清風堂」といった店の、自慢のカステラが並ぶ。勧められるままに味見をくり返したが、いずれ劣らぬ自信作である。威勢のいいオバさんにつられ、清風堂の中に入った。

清風堂は“カステラ職人”と称し、昔からの手焼きを受け継いでいる。種類はハニー、チョコレート、抹茶、ザボン、チーズとある。値段も手頃でお薦めである。この時はランタン期間中ということで更にお安くなっていた。ここで2件の発送を依頼して店を出た。同じ通りにある物産館には和泉屋のカステラが並んでいた。こちらもザボン、茂木ビワなど15種類のカステラがある。ザボンやビワはこの地の名産なのだ。

坂を降りた所には“チャンポン発祥の老舗”である「四海楼」がある。しかし待ち時間30分とあったので入らず東山手の方へ向かうことにした。するとカステラの老舗中の老舗「福砂屋」の支店があった。ここでも友人に発送した。店員さんにオランダ坂への行き方を尋ねて教えてもらい店を出た。少しばかり腹が減ったなと思ったら「みらく園」があった。たしかこの店もガイドブックに載っていたなと思い出し、昼食をとることにした。前夜は“ちゃんぽん”であったので“皿うどん”にした。なかなか美味である。味わいながらまた疑問が浮かぶ。それは、ちゃんぽんにも皿うどんにもかならず載っているピンクのカマボコの由来である。それが知りたくてたまらない。(どなたか教えていただければ有難い)

しばらく歩くと坂が目につく。突然いきおいよく坂を下ってくる車に驚く。慣れているのか地元の人びとは、坂だからといって特にスピードを落としもせず運転しているように見受けられる。これも土地柄(地形柄)かなと微笑ましく見せてもらったが、チョット危い。急な坂道を喜々として登ると「活水(かっすい)学院」があり、「オランダ坂」に着いた。この道は「日本の道百選」に選ばれているとの説明を読み、なるほどと思う。しかしその近辺のどの坂道も美しい。坂道大好き人間である私は、すっかりご機嫌であった。

オランダ坂に隣接して「東山手十二番館」がある。その素敵な洋館は、1868年(明治元年)に建設され、ロシア領事館が置かれたりアメリカ領事館やアメリカの婦人外国伝道協会の宣教師用住宅として使われた。1941年(昭和16年)に活水学院に譲渡されたが、学院は1976年(昭和51年)に長崎市に寄贈する。正面中央の幅の広い廊下と3つの大きな部屋に広いベランダがある。平成7年に修復され、現在は旧居留地にあった私学の歴史資料館として活用されている。入館料は無料である。休ませてもらい、来訪者用ノートに“水無月右近参上”と書いてきた。

その先にある「孔子廟」や「町並み保存センター」にまでは行かなかったが、見わたすかぎり坂、坂、坂で、坂道を心ゆくまで堪能した。7地区の居留地のうち、東山手地区には学校が多い。男子中学生たちが、楽しげに語らいながら三々五々向こうから坂を下ってくる。目を細めて彼らを見ている自分に気づく。

風は相変らず冷たい。ずいぶん歩いたな。ひとまずホテルへ帰ろうか。持って生まれた動物的な方向感覚により、私はなんなくホテルへ辿り着くことができた。
2004年2月
グラバー園の中のグラバー住宅
冬空の下の大浦天主堂 東山手十二番館

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