「長崎は今日も寒かった(その四)」

旅の三日めの朝、カーテンをあけると吹雪のような天気であった。山の手の家々は雪化粧をしていた。そんな悪天候にもかかわらず、再び平和祈念公園、爆心地、原爆資料館を訪れた。そのあと、前回は訪れることができなかった浦上天主堂と永井隆博士記念館にも足を運ぶことができた。

★浦上天主堂
1567年(永禄10)以降、浦上ではキリスト教信者がふえた。キリスト教が禁止されると、浦上の人たちは潜伏して信仰を続ける。厳しい弾圧はくり返され、1867年(慶応3)には実に3384人が各地に流配された。
 浦上に戻ることができた1883人を中心に、1873年(明治6)には天主堂が計画された。1895年(明治28)、教会の建設が開始されるも完成は起工より30年後の1925年(大正14)。石と煉瓦造りのロマネスク様式で東洋一の大聖堂だった。

1945年(昭和20)の原爆で建物は全て破壊される。爆心地から0.5kmに位置する天主堂は一瞬のうちに爆風で全壊。堂内にいた2人の神父と24人の信徒が運命を共にした。また、当時の浦上教区信徒12000人のうち8500人が命を失い、一帯は焼け野原となる。

翌1946年(昭和21)11月に木造仮聖堂、13年後の1959年(昭和34)の11月には鉄筋コンクリートの近代様式とロマネスク様式を混合した新しい天主堂が甦った。

1980年(昭和55)4月には被爆前の天主堂への復元へ向け工事は着工され、外壁を煉瓦タイルに改装する。1996年(平成8)11月、26聖人殉教400年祭を前に、パイプオルガンを設置する。(浦上天主堂の冊子より)

天主堂の敷地内には、殉教した最年少の12才の少年の像、被爆した聖人や天使の像、長崎出身の劇作家、演出家である田中千禾男の文学碑などがある。聖堂正面の双塔は被爆時には爆風により石柱にずれを生じ、聖像は熱線と炎により黒く変色した。弾圧や原爆という苛酷な歴史を経て、威厳をもって建つ浦上天主堂。それは不屈の精神で過去を耐えぬき、永遠に神とともにあるカトリック教徒たちの気高さを象徴している。

★永井隆記念館
永井隆博士という人を皆さんはご存知だろうか。長崎では知らない人はいない。恥ずかしいことに、私は昨秋の原爆資料館訪問まで知らなかった。このたびの長崎への再訪で持ち帰った最も大きなものは、永井隆博士の生き方への感銘と尊敬の念である。博士の壮絶にして穏やか、優しさに満ちあふれたその生き方は、今後の私の人生において指針となることは間違いない。旅の記録の最後に、この尊敬すべき偉大な人のことを書きたいと思う。

■永井隆博士の生涯■
1908年(明治41) 島根県松江市に生まれる
1932年(昭和6) 長崎医大を首席で卒業。急性中耳炎を患い入院
◎中耳炎を患ったことにより片耳の聴力が不完全となる。そのため聴診器を使う内科医をあきらめ放射線医学を専攻することになる。

1934年(昭和9) 満州事変の短期軍医としての赴任先より帰国。洗礼を受ける。森山緑と結婚
1935年(昭和10) 長男:誠一(まこと)生まれる
1937年(昭和12) 長崎医大講師となる。日中戦争に軍医として従軍
1940年(昭和15) 長崎に帰る。長崎医大助教授。物理的療法科部長
1941年(昭和16) 次女:茅乃(かやの)生まれる
◎長女は幼くして病死している。

1944年(昭和19) 医学博士
◎聴力が充分でなくなったことから放射線科の医師となり、当時急増していた結核患者に尽力した。その結果みずからを散乱放射能にさらし続けて白血球の数がふえ、しだいに体は蝕まれていく。これ以降の博士の行いは人間のものと思えない。

1945年(昭和20)6月 慢性骨髄性白血病で「余命3年」と診断される。白血球10万8千(正常値7千)
1945年8月9日 原爆被災。右側頭動脈切断、出血をおして3日間救護活動
〃8月11日 自宅焼跡に帰り緑夫人の遺骨を拾って埋葬
〃8月12日 救護班を開設、巡回診療を行う(約2ヶ月間)
〃8月15日 終戦
〃9月25日 失神して危篤、一週間後奇跡的回復
〃10月15日 焼野原の浦上に帰り、一坪程のトタン小屋を建てて住む
〃11月23日 浦上教会合同慰霊祭。信徒代表として弔辞を読む
◎大学で講義中に被爆し、大出血を伴う重傷を負いつつ博士は人びとの救護にあたった。頭や顔に巻いた繃帯に血をにじませ医者としての任務を果した。職業によるものと被爆による二重の放射性白血病に冒されながら自らをかえりみず救護活動に精を出した。その無理がたたり、生命の危機が訪れるが奇跡的に回復する。それは神の力であったのか、彼のもつ精神力、生命力であったのか。おそらくその両方であったと私は思う。

1946年(昭和21)1月 長崎医大教授
〃7月 長崎駅で倒れ、以後病床に伏す
〃8月 「長崎の鐘」脱稿
〃11月 長崎医学会で研究発表「原子病と原子医学」
◎これ以後、博士は寝たきりとなり、再び立つことができなくなる。映画化・劇化され、故藤山一郎氏の歌でも知られる「長崎の鐘」は博士による愛の物語である。ついに起き上がることができなくなっても博士は思う。「まだ働く部分を探したら、手と目と頭とがあった」(「いとし子よ」より)それ以後、精力的に執筆活動に励む。

1948年(昭和23)3月 如己堂が建ち、移り住む
〃10月 へレン・ケラー女史が如己堂を訪れる
〃12月 浦上に桜の苗木千本を植える
1949年(昭和24) 昭和天皇が見舞う。教皇特使の見舞いも受ける。長崎市長の表彰を受け、長崎市名誉市民(第1号)の称号を贈られる
◎「如己堂」というのは博士の友人たちが建ててくれた2畳ひと間きりの家である。「如己愛人」という言葉を博士は色紙に書いている。それは“汝の近きものを己の如く愛すべし”ということである。博士はまさにそれを実践した。この如己堂では、残していかなければならない2人の子供たちと語らい、幸せなひとときを過ごす。朝から夜まで客が訪れるため深夜に執筆し、その著書は十数冊に及ぶ。翻訳も2冊ある。白血球はふえ続けて病気が進むなか、これは驚異である。そればかりか全国からくる手紙に必ず返事を一日に5〜6通は書いたという。

1950年(昭和25)教皇ヨハネ・パウロ二世からロザリオを贈られる。首相の表彰を受け、天皇より銀盃を贈られる
1951年(昭和26)白血球39万となる(正常値7千)。5月1日午後9時50分 長崎医大で亡くなる。翌日、本人の意志により遺体解剖
◎永井博士は43年の生涯を閉じた。病床にあった博士の腹部は妊婦のように膨れていた。それは白血病により肝臓や脾臓が腫れていたからだ。死亡時には肝臓は通常の5倍、脾臓は35倍にもなっていた。

このように永井隆博士の生涯を冊子から紹介したが、本当は著書を一冊でも読んでもらいたい。私は「長崎の鐘」と「如己堂随筆」を買ってきて読んだ。キリスト教精神に満ちた優しさは、別の宗教を信仰する人でも、信仰を持たない人でも深く感動する。これほど偉大な人を私はなぜ今まで知らなかったのだろうか。日本国内でさえ原爆のこと、それに関することが行き渡っていないのだ。“ヒロシマ”“ナガサキ”を世界はもとより、まず国内に浸透させなければならない。唯一の被爆国として、もっと国内外で戦争反対を一貫して表明し、平和の大切さを提唱しなければならない。

博士は自分の2人の子どもたちだけでなく、1600人の児童のうち生き残った300人の山里小学校の子どもたちにも心を配った。死んだ友だちの慰霊碑を建てようと提案し、費用の不足分をもった。また「うちらの本箱」という看板を出して図書館を開設、子どもたちに本を読む場を与えた。病床で描いた絵は2人の子どもたちや緑夫人、動植物である。病床の博士の眼に映るすべての人や生きものに、かぎりない愛と優しさを注ぎ続けた。

2000年(平成12)、全面改築された記念館は「長崎市永井隆記念館」と改称され、浦上天主堂にほど近いところに建っている。記念館の左には、可愛らしい「如己堂」がある。ガラス戸から博士が寝ていた2畳の部屋が見える。カトリック教徒ではない私は合掌した。胸が熱くなった。人生に思い悩んだら、ここへ来ればよいのだ。この偉大な人との出会いは神が導いたのだろうか。いつのまにか薄日が射していた。

夕方、さまざまなものを見たり味わったり、考えたりした長崎を発った。空港バスが走り出すと吹雪になった。ここは青森か。いや長崎だ。なぜならカステラ屋の看板がいくつも目につく。長崎は今日も寒かった。

■永井隆博士からのメッセージ■

『お互いに許しあおう…お互いに不完全な人間だから
 お互いに愛しあおう…お互いさみしい人間だから
 けんかにせよ、闘争にせよ、戦争にせよ、あとに残るのは後悔だけだ』

『平和を祈る者は、一本の針をも隠し持っていてはならぬ。自分が…たとい、のっぴきならぬ破目に追い込まれたときの自衛のためであるにしても…武器をもっていては、もう平和を祈る資格はない。』(「平和塔」より)

★長崎市永井隆記念館の情報は
 http://www2.nbc-nagasaki.co.jp/main/nagasaki/art/nyokodo/index.html

 
(完)
2004年2月
浦上天主堂

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