「長崎は今日も晴れだった(その二)」

二日めの朝も快晴である。さあ今日はどこへ行こうかと、モーニングコーヒーを飲みながらガイドブックを開いて考えた。まずは大浦天主堂へ行こう。

長崎の街には路面電車が縦横に走っている。その路面電車は「長崎電気軌道」という。路面電車は長く住んだ大阪堺市にも走っている。それは阪堺線と云い、大阪−堺間を走る庶民の足、「チンチン電車」として親しまれている。私の故郷である神戸市や、学生時代を過した京都市にも、かつては「市電」と呼ばれる路面電車が走っていたものだ。(残念ながら私は大阪市内の“今”も“昔”も詳しくない)それらは都市整備化が進むにつれ消えてゆき、地下鉄が取って代わった。地上をゆっくり走る路面電車は懐しい。長崎電気軌道“1系統”乗車、「築町」で“5系統”に乗り換え「大浦天主堂下」で下車する。いくら乗っても100円とは安い。乗り換えには乗り換え券もくれるのでありがたい。地元の人たちに混じって私も観光客の一人として電車に揺られた。

大浦天主堂へ行きたいと思ったのは、その一週間ほど前にNHKの放送で、ステンドグラスのことについての番組を見たからだ。それで大いに興味を持ち、実際に見てみたいと思ったのだ。電車を降りるとゆるやかな坂道が続き、みやげもの屋が並ぶ。前方に白い建物が見え、それが大浦天主堂であった。拝観券300円也を払い、中へ入った。

★大浦天主堂
正式名称は「日本26聖殉教聖堂」、別名フランス寺。1863(文久三)年、パリー外国宣教会のフューレ神父が来崎し、外国人居留地に隣接した土地を入手。ついで1864(元治元)年、プチジャン神父の協力を得て小山秀之進が施行した。翌1865年、長崎かくれキリシタン「信徒発見」の舞台となる。名称の由来となった「日本26聖殉教者」とは、豊臣秀吉のキリシタン禁教令により捕縛され、1597(慶長二)年に処刑され、1862(文久二)年、聖人の尊称を献上されてカトリック全教会信者の尊崇を受けることになった日本人20名、外国人6名のことである。

聖堂内では、折しも結婚式がおこなわれている最中であった。中央大祭壇の前では神父に導かれ、新郎新婦が誓いの言葉を交わし合った。滞りなく式を終え、かれらは列席者に向かって礼を述べた。私たち観光客も列席者とともに拍手をした。かれらはこれから新たな人生の船出をするのだ。若い二人に幸あれ。

大浦天主堂は、原爆投下により甚大なる被害を受けたが、その後に五年の歳月を費して修復された。現存する木造ゴシック様式の教会のなかでは最も古く、国宝に指定されている。ステンドグラスが太陽の光に淡く美しい。敬虔な気持ちになって聖堂を出た。

敷地内の案内表示によりグラバー園へと続くことを知り、石段を昇っていった。こちらは入場券600円也である。勾配のある「動く歩道」で楽に上へ上へと運ばれ、しだいに街や海が下方に広がってくる。坂道を歩くというのがこの旅の目的のひとつであったが、こうも急な勾配には“文明の利器”はありがたい。あまりの快適さに、いつまでも乗っていたいな空までもなどと、子どもみたいなことを考えていた。

★グラバー園
幕末から明治にかけて建てられた洋館を一堂に集めた所で、長崎の観光スポットのひとつ。「旧グラバー住宅」ほか9つの洋館が立つ。以下に主なものを紹介する。
■旧三菱第2ドックハウス
国内で最も高い場所に位置し、2階のバルコニーからは長崎港、その後ろに山々と住宅、造船所やドックが開け、最高の眺めである。
■旧グラバー住宅のグラバー親子
江戸時代末期に建てられた日本最古の木造洋風建築で、国の重要文化財に指定されている。真上から見ると屋根がクローバー型をしている。スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーは1859年、21歳の時に開港と同時に長崎に来日し、グラバー商会を設立する。激動の幕末に、坂本龍馬ほか志士達を陰で支え、伊藤博文らの英国留学を手伝うなど若い人々への援助を惜しまなかった。明治以降は純経済人として日本の近代科学技術の導入に貢献している。

倉場富三郎(英名・トーマス・アルバート・グラバー)はグラバーの嗣子として誕生。米国で生物学を学び、帰国後はホーム・リンガー商会の取締役を歴任。リンガーとともにトロール漁法を導入、日本の水産界に革命を起こす。800もの魚介図「グラバー漁譜」は有名。戦中、スパイ容疑をかけられ、官憲の厳しい監視を受ける。終戦直後1945年8月26日、自らの命を絶つ。

また、グラバー住宅は有名な歌劇「マダム・バタフライ」の舞台にもなった。グラバーの妻ツルが接客のときには蝶の紋の着物を着ていたことがヒントになったと云われている。場内には、この歌劇の主役を演じ続けて世界的に有名にした三浦環の記念像もある。

■旧ウォーカー住宅のウォーカーさん
ロバート・ネール・ウォーカーは英国出身。1898年に長崎でウォーカー商会を設立、日本の海運業に大きな業績を残す。彼は兄やグラバーとともに日本初の清涼飲料水メーカーも設立し、それが現在のキリン麦酒(株)の前身となる。晩年は息子に事業と邸宅を譲り、カナダへ移住する。

■旧オルト住宅のオルトさん
ウィリアム・オルトも英国出身で開国とともに、いち早く長崎に渡りオルト商会を設立する。大浦慶とともに九州一円から茶を買い求め、輸出事業を行う。製茶業で富を得た彼が建てたオルト邸は本格的洋風建築。建築したのは大浦天主堂を手掛けた小山秀之進。

■旧リンガー住宅のリンガーさん
フレデリック・リンガーも同じく英国出身。1864年頃に来日し、グラバー商会に勤めた後に英国人ホーム氏とともにホーム・リンガー商会を設立する。長崎の上水道建設・外国貿易・代理店・製茶・製粉・発電など幅広い事業を行った。彼が建設した「ナガサキ・ホテル」は、当時アジアの一流ホテルとして名を馳せた。

その頃の長崎は夜明けであった。海の向こうの異国から夢を抱いてやってくる人々、倒幕の野望に燃える志士たち、西洋の学問を志す日本の若者たち……。南山手の小高い丘の上に整美されたグラバー園は観光地と云っても人もまばらで静かである。そこのベンチに座って目を閉じると、その頃の熱気や活気が髣髴とする。目を開けると異人館、海、造船所、山々、高台の家々、坂道…。どこかの風景に似ているぞ。そうだ。それは私の故郷神戸の景色と似ているのだった。異国との玄関になった街というのは、どこかしら開放的でカラリとしている。居心地が良い。

園内では、時おりツアーの人びとがワッと来てはサッと居なくなる。青い空、青い海。時間に縛られない旅人右近は、いつまでもベンチに座って海を見ていた。この街が好きになった。
つづく
2003年12月

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