「長崎は今日も晴れだった(その三)」

次の目的地は決まっていた。爆心地、平和公園、原爆資料館である。ふたたび長崎電気軌道に乗り、反対方向へと揺られ松山町で下車する。通りの向こう側に平和公園の入口が見えた。階段を上っていくと中央にあの平和祈念像が見え、公園に住みついた猫たちが私を迎えてくれた。

平和祈念像は思っていたより大きかった。天に向かう右手の指先は原爆の脅威をさし示し、水平に伸ばされた左手は世界平和を表すという。二本の腕は悲劇を決してくり返さず、世界平和をと強く訴えている。像の頭の上に一羽の鳥がとまった。あの日は鳥たちも犠牲になったことだろう。閑散とした公園内で、あの日水を求めて殺到した人々の苦しみに思いを馳せ、祈りを捧げた。

次に公園を出て「原爆落下中心地」へ向かう。1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、B29が落とした原子爆弾は浦上の上空約500mで炸裂した。中心地に立つ塔は、その真上で“ファットマン”(長崎型原爆は形状からそう呼ばれた)が炸裂したことを示す。怒りが込みあげる。爆心地に立ち、悲しみよりも怒りに震え、私は天を見上げた。許せない。58年がたっていても、何年の歳月が流れても絶対に許せない。

「長崎原爆資料館」に入館してからも怒りは治まらない。アメリカという国は、よくもまあこんなひどいことを他国にしたものだ。広島のみならず、三日後には長崎にまでも。死者73,884人、負傷者74,909人(推定)。今なお後遺症に苦しむ人々が多くいる。人を人とも思わないアメリカの仕打ちに怒り心頭に発した。

原爆投下は正しかった、それによって戦争終結を早め、両国の死傷者や被害を最少限度にくい止めたという“元軍人”たちの声を聞くたびに、私は腹を立て、テレビのスイッチを切った。もし自国が受けた立場であれば、かれらの怒りはどれだけ凄じいものであっただろうか。

「正義」という大義名分のため、世界中の制止を振り切り、アメリカの暴走は現在も続いている。報復、征服を達成するために、どれだけの罪なき人々を死に至らしめていることか。また、日本は“ヒロシマ・ナガサキ”を経て尚も、なぜ「親分」に加担するのだ。若い頃に訪れたかの大国で、私はいくつもの「アメリカの良心」に出会った。寛大な優しさに触れた。かれらはきっと自国のことを恥じ、憂えているにちがいない。まさに“ブッシュに乗っ取られたアメリカ”という言葉は的を射た表現である。大部分のアメリカ国民の良識と良心を私は信じたい。これ以上、暴虐な君主をかれらは許すべきでない。

修学旅行の中学生たちが明るい笑顔で展示物を見てはメモを取り、談笑している。この悲劇が起きた頃、私も君たちも生まれていなかった。けれど君たち、どうかあとを頼んだよ、こんな悲惨な状況が二度と目に映ることのないように。そんな思いを居合わせた中学生たちに託すような気持ちで資料館を出た。

ふだんの日常生活での私の行動と比較すれば、前日とその日の歩数はかなりのものである。次の行動を考えたが、調子に乗って疲れを出してはならない。一旦ホテルへ帰って休むことにした。朝食が遅かったので昼を抜いてしまっていたことを思い出し、コンビニでおにぎりやコーヒーを買ってホテルに戻り、一時間少々の間、ゆっくり休むことにした。

午後六時に私は旧友と会う約束をしていた。彼女とは京都での演劇研究生時代の同期である。叱られ怒鳴られながら共に鍛えられた、いわば同じ釜の飯を食った仲なのだ。研究所卒業後、彼女は結婚し、旦那さんの転勤で長崎へ移り住んだ。以来この地の人となっていた。夫婦でクリスチャン、四人の子だくさんである。

前夜、連絡をとってみると、ぜひ会いたいと言ってくれた。震災後に私の実家を心配して電話をくれるなど、電話では何度か話していたが、会わなくなって30年の歳月が流れていた。彼女が驚くといけないので、私はもはや“R子さん”ではないことを告げておいたが、彼女にはその意味がわからないようであった。

午後六時。劇的再会は、「ギャーッ!変わってない!」と叫びあうことから始まった。彼女はあの頃のままであった。彼女も私がそのままであると言った。人間そうそう変るものではないらしい。それから彼女が案内してくれた店で、深夜までかしましく語りあい笑いあった。旧友は本当にいいものだ。

ホテルの前で互いに笑顔で別れる際、遠距離に住む人との別れに感じる一抹の淋しさがなかった。この人とはもう会うことはないかもしれないという思いが湧いてこなかったのは、たぶん、私が長崎という街が好きになってしまっていたからであろう。この街には何度でも来る、その時にはまた彼女と旧交を温めようと思わせたのだ。

翌朝、荷物をまとめ、湯を沸かしてインスタントコーヒーを飲んだ。それから八時半の空港行きバスに乗り込んだ。この日は振り替え休日後の火曜日、一週間の始まりの日であった。窓の外は観光都市でもない、原爆が落とされた街でもない、どこにでもある街の、どこにでもある営みの風景であった。

路地という路地は坂道で、そこから通勤の人びとや園児と母親たちが下りてくる。それを見て、当初の目的であった「坂道を歩くこと」をあまりしなかったことに気がついた。まあいいか。かならずまた来るのだから。大阪は雨続きらしかったが、長崎は今日も晴れだなあと遠くの空をバスの窓からながめていた。
おわり
2003年12月

原爆落下中心地に捧げられた折り鶴

■□■原爆の詩■□■

    「水ヲ下サイ」
               原 民喜

水ヲ下サイ
アア水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

天ガ裂ケ
街ガ無クナリ
川ガ
ナガレテヰル
 オーオーオーオー
 オーオーオーオー

夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼ケテ
フラフラノ
コノ メチャクチャノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ


   「仮繃帯所にて」
               峠 三吉

あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいてもことばになる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち

血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
糸のようにふさいだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥ずかしいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう

焼け爛れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎと飛び出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める

なぜこんなめに遭わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない

ただ思っている
あなたたちは思っている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんを食べた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれ いまは灰の跡さえわからない)

おもっている おもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を

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