「西尾荘の若者たち」

年が明けると「あの日」が近づいてくる。いや、クリスマスまで点灯される“神戸ルミナリエ”を見上げると、もうすぐ「あの日」だなと思う。

1995年1月17日午前5時46分。未曾有の大地震が起こった。あれから9年の月日が流れた。街は一見、完全に復興したかのように見えるが、今なお再建に努める人びとや生活に苦しむ人びとが多くいる。目に見えるものの復興は進んでも、心のなかの悲しみは歳月が癒やすことはない。そんな悲しみを幾つも強いたのが阪神淡路大震災であった。

当時、新聞には連日のように震災の犠牲者や被害についての記事が掲載された。私はそれらを貪り読み、そして泣いた。離れた所で涙をこぼしているだけでは何もならないとわかってはいても、泣けて泣けて仕方なかった。そんなことしかできない自分に苛立ってもいた。ある日の記事に私は号泣した。それは「神戸大学生たちの無念の死」についてのものであった。先日、彼らのことが再び朝日新聞に掲載された。坂本竜一さん、中村公治さん、鈴木伸弘さんは学生荘「西尾荘」に住む神戸大学の学生であった。三人はそこで若い命を奪われた。新聞記事をもとにこの悲劇を皆さんに伝えたい。

「西尾荘」は神戸市灘区、JR東海道線の六甲道駅近くにあった。その近辺には1960年代に学生アパートが急増した。分散していた神戸大学の学部やキャンパスが、そこに集約された頃である。西尾荘もそのひとつであったのだろう。南棟と北棟があり、それぞれ1階と2階があった。亡くなった3人は全員が北棟1階の住人であった。

南棟2階の住人であった平野裕幸さんによると以下である。部屋ごと突き上げられるような激しい揺れのあと、窓をこじあけて外へ出た。すると南棟、北棟とも1階が圧し潰され、2階部分が落ちていた。北棟のがれきの下で「おーい」と声がする。皆で屋根瓦を外し、天井や畳をはぎ取ると穴に坂本竜一さんの上半身が見えた。土壁をかぶり柱に挟まれていた。

南棟1階に住んでいた松田好晴さんが何とか助け出すからと励ますと「おう」という声が返ってきた。力を合わせて救出しようとする学生たちに徒らに時間だけが経過する。30分後、隣の住宅に火が回り燃え上がった。北棟2階に住んでいた堂越浩さんが「道具はないのか」と怒鳴ったが、誰もそれに答えず黙々とがれきをどけた。埋まっている坂本さんが「のどが渇いた」と言うと誰かがペットボトルから水を飲ませた。しかしその時、火はすでに西尾荘の屋根に燃え移り、火の粉が舞っていた。

「もういいから、逃げてくれ」
坂本さんが落ち着いた声で言った。皆は黙ったまま顔を見合わせた。堂越さんは坂本さんに近づき「ごめんな」と言う。返事はなかった。坂本さんの顔を誰も見ることができないまま皆は離れた。その直後、炎が西尾荘を包んだ。誰かが炎の中に飛び込もうとし、ほかの誰かが羽交い締めにしてそれを止めた。黒煙を上げて燃え盛り、焼け落ちてゆく西尾荘を見つめ誰も言葉を発さず、ただ泣いた。中村さん、鈴木さんも犠牲になった。

震災の2日後、坂本さんの父、秀夫さんが焼け跡から遺骨を掘り出した時、骨はまだ素手では持てないほど熱かった。前日は明石市の自宅近くの焼肉屋で一緒に食事をした。アパートへ帰るという息子を引き留めなかったことを悔やむ。段ボール箱に詰めてある息子の遺品を、父はまだ見ることができない。

平野さんはその年に大学院に進んだが、しばらくは炎に包まれる夢を見た。もし自分であれば坂本さんのように「もう逃げてくれ」と言えただろうかと自問をくり返す。結婚後も妻と何度も西尾荘跡地を訪れてみた。

松田さんは現在は広島に住んでいるが、焼け跡から持ち帰ったスケート靴の刃を見ると坂本さんの表情が浮かぶという。炎の高熱で赤茶けたぼろぼろの刃は、苦しく悲しい思いと悔いが頭の中を巡らせる。車のジャッキなら柱を押し上げることができたのでは、近所を駆けまわればノコギリはあったはずだ…。

坂本さんを救えなかったのに避難生活では多くの人に助けられた。松田さんは就職する際にも震災の時の思いが心にあり、途上国援助による学校や病院の設計をする会社を選んだが、昨年、建築士として独立するため退社した。松田さんは言う。「建物は命を守らなければならない。そんな当たり前のことを震災で思い知らされました。デザインよりも、地震に強い設計を心がけたいと思います」

自分のことはもういいから逃げてくれと仲間を思いやった坂本さん。懸命に助けようとして果たせなかった仲間たち。断腸の思いである。生き残った者たちは、どうすることもできなかった歯がゆさと辛い後悔を胸に、それでも生きなければならない。悲劇を語りつぎ、生きている自分は何をすべきなのかを問いながら。

この震災での学生死者数は111人。そのうち神戸大学生は39人を占める。教職員も2名が犠牲になった。神戸大では慰霊碑を立て、今年は16日に献花がおこなわれる。また、専修学校生や高校生以下の生徒、児童の死亡は376名にも及んだ。およそ500名もの若い人たちが、理不尽にも学業途中で命を奪われてしまった。卒論を書き上げたばかりの女子大生や、はるばる外国から来て学んでいた留学生、甲子園をめざしていた野球少年、看護師になろうとしていた少女…。みんな志なかばして召されてしまった。その無念さを思うと痛恨の極みである。

私たちは何をするべきなのだろうか。避けることのできない天災による激甚災害に対し、いかにして命を守るかという課題に今こそ真剣に取り組まなければならない。

生きなければ。生きている私たちは、とにかくしっかり生きなければならない。それしかない。若い命よ、安らかに。

参考:朝日新聞記事より

2004年1月

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