「葬儀のかたち」

夫の急逝に際し、葬儀は迷わず密葬にした。故人は自分が亡きあとのことについて考えたことがないような人であったので、どんなかたちで送ってほしいのかを知ることがないまま突然に逝ってしまった。密葬というかたちを本人は喜んだのかどうかは知る術がない。

私は膠原病を発病して以来、時おり自分の死について考えるようになった。同時に残された者がおこなう事後処理についても考えることがある。私は葬儀も戒名も不要とし、娘たちがどうしてもと望むなら自然葬をし、私が愛した土地や海に愛猫たちのものとともに灰を撒いてほしいと考えている。

俳優の渥美清さんは、生前、自分の死顔は家族以外の者には見せず、遺体は素早く骨にすることと伝えてあったと何かで読んだ。誰にも死顔を見られたくないという本人の意思を家族は守り、早々に荼毘に付したという話に感動を覚えた。そのことを思い出し、夫は渥美清さんではないが、そのように送りたいと思ったのだ。

最近では以前ほど密葬を珍しがられることはなくなった。ひと昔まえならば、わけありの葬儀だと思われたり、騒ぎたてずにと願う著名人や知識人のとるかたちだと考えられるふしがあった。ようやく認められつつある一方で、まだ一般的になったと云えないことは事実である。しかしこのかたちを選んでよかったと振り返って思うのである。あってはほしくないことではあるが、今後の皆さんの参考になればと敢えて五ヶ月前のことを思い出してみよう。

死亡当日、娘夫婦が遺体の清拭をする横で、私は電話を片手に棺桶を購入できるところを必死で探していた。渥美清さんのように、荼毘に付すまで家族だけでと考えていたので、火葬場までの遺体の搬送の手配が必要だったのだ。市に問合わせると火葬場へは搬送車は差し向けてくれるが、棺を手に入れる方法が分からないということだった。手あたりしだいに葬儀社に電話をし、棺を譲ってもらえないかと交渉したが駄目だった。

電話帳にある葬儀社に次々と電話をかけるうち、密葬も引受けるという業者があり、そこに頼めば棺桶はもとより搬送もしてもらえるとわかった。夜になって業者がやって来た。担当の人は打合わせを始めるなり普通の葬儀を勧めた。夫の年令や社会的地位などを挙げ、それなりの告別式をしてあげてはというのである。彼は私が経費節約のためにそのかたちをとろうとしていると思ったのであろう。しきりに説得するのだが、私は落ちなかった。渥美清さんの話をし、ほんの身内だけで静かに送りたい、むしろ立派な告別式は避けたいのだと云うとついに彼はあきらめ、「わかりました」と納得した。

その葬儀社が定めた密葬にかかる費用は約十万円で、白木の経机と仏具一式、棺桶、骨壷、骨箱と搬送が含まれる。オプションとしてほかにいろいろ勧められたが、何せ派手になるのを避けたいのだから、特に望むものはないと思っていた。だが、夫が車好きであったので、その葬儀社が所有する最も高価なキャデラックのリムジンをプラスし、花も大好きだったので、棺の周りを花で埋めてもらうことにした。私は坊さんのお経も戒名も不要と考えたが、義母や義姉は切望し、私が折れ、それも頼むことにした。

その夜には会社の人が三名来られた。通夜をおこなっているという意識がなく普段着のままでいたので慌てた。あとは義母と私たち夫婦の兄弟たちだけである。この時点で私と娘だけでというのは実行できなくなってしまった。翌日の葬儀には会社から六名が来られ、前日と同じ身内、娘婿の両親や、夫の大学時代の親友一名も来てくれた。通夜と葬儀の一部始終はいつも過している居間とDKでしめやかにおこなわれた。どうでもよいことであるが葬儀費用の総額は、わずか50万円程度であった。

この文を書いたのは葬儀費用を節約したり、葬儀を簡略化することを勧めるためではない。今からが本筋である。参加したごく近い身内は皆「このかたちで良かったね」と云ってくれた。普通の葬儀であればせわしなくてできないことが、いろいろとできたからだ。

検視が終わり救急隊や警察が帰ったあと、娘夫婦は夫の躯を清拭するための脱脂綿やガーゼを買いに行った。かれらが帰ってくるまでのわずかな時間を私は夫と二人だけで過した。警察の人たちによって床からベッドへと移されて眠る彼に、私は添い寝をした。涙なく、何も云わず、彼のぬくもりではなく冷たさをたしかめ、ただ抱きしめていた。きれい好きの彼は気分が悪かったのにシャワーを浴び、髪からはシャンプーのいい香りがした。すべてから解放された彼の表情は、子どものように安らかだった。やっと私に甘えられた彼の顔は幼児のように愛らしかった。短い時間だったが、誰もいないのでそのような抱きしめての最後の時が共有できた。

義母は夜に到着し、棺の中の息子に向かい、「ひろし君、起きなさい」と何度も呼びかけた。先立つという親不孝をしてしまった息子を前にし、目もあてられないほど落胆した母親の姿は見るに堪えないものであった。最愛の息子のそばで最後の夜を過してもらおうと、棺の横に布団を敷き、そこに義母に寝てもらった。義母はなかなか眠りにつけないようであった。私は食卓の椅子やソファにすわって夜を明かした。悲しみの意味がまだ分からず、泣きもせずに起きていた。

時おり棺のそばに行き、眠っている夫に触れた。ドライアイスが入れられた棺の中の彼はさらに冷たく、消毒のアルコール臭がした。前髪を少しだけ切り、取っておいた。冷たい唇や頬に何度も口づけた。食卓のテーブルでは手紙も書いた。命を終える瞬間にそばに居なかったことを詫び、過去の彼の罪に対してすでに許していたことを書いた。態度には素直に表せずにごめんねと謝った。心をこめて彼に書いた最後の手紙を棺に納め、北海道旅行の時に二人で撮った写真も入れた。そうしてまんじりともせず夜が明け、永訣の日の朝を迎えた。

これらのことは、その場に気を使わなければならない人が居ないからこそできたことである。義母にもゆっくり別れを惜しんでもらえたし、私もそうすることができた。通夜も葬儀も挨拶に追われて頭を下げつづけることもなく、余分な気疲れをせずに済んだ。仕事人間である彼がこのかたちを望んだのかどうかは疑問である。だが、社内では中心的存在ではなくなってきていたことを嘆いていた彼は、この送り方を喜んでくれたのではなかろうか。会社葬のようになってしまう葬儀よりは家族葬、対外的な仕事人間としての彼を送るのではなく、夫として、父として、息子として、かけがえのない大切な家族としての彼を私たちは送りたかったのである。思いをこめて別れを惜しみたかったのである。

惜別は世のしがらみに縛られず、誰にも遠慮せず逝く人に対して存分におこなわれるべきである。葬儀のかたちはこれでよかったと思っている。きっと彼も喜んでいたと信じている。あるいは例によって「どうでもいいぜ、そんなこと」とうそぶいていたのかもしれない。

2005年1月


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