「創作は愉し」

―恋愛詩・恋愛小説を書くこと―

詩や物語を書くことには、ひとつの世界を創り上げる愉しみがある。シロウトの分際でいっちょまえのことを云うようだが、シロウトであってもその愉しみは充分に享受している。

まずは恋愛詩であるが、私が書く詩には何通りかの型がある。そのひとつに、あるタイプの人間になりきって独り語りをしたり、呼びかけたりしているものがある。極道だった男にも、ガテン系の兄ちゃんにもなる。気障(きざ)な男や遊び慣れた軽い男はお手のものだし、情けない男も得意である。落ち着いた大人の男がいるかと思えば子どもみたいな奴もいる。可愛い女、儚げな女、哀しい女、せつない女にもなって書く。

ある人物になりきる面白さは、俳優が役になりきるのと似ている。実際には自分自身は独りの人間であるから、いくつものタイプになることなど不可能だ。しかし、頭の中で描く世界ではそれができる。これは愉しいことである。また、詩に描かれた情況も多種多様である。妖しげなもの、せっぱつまった余裕のないもの、愛欲の極み、せつなさに満ちたもの、穏やかなものと数えきれない。目ざすところは共感し、追体験してもらえるような心情や、空気、風、匂い、息づかいまでが感じられるような愛の世界である。だが、どこまで表現できているか自分では分からない。

それらの登場人物や描いた世界とは私のことか、事実なのかと訊かれることがある。残念ながらYesともNoとも云えない。実際の自分とかけ離れている人物や情況の場合はNoと云えるが、はっきりと線が引けるものばかりではないからだ。私が書くのだから、何らかのかたちで私自身は色濃く表れているであろうし、心理や情景描写も私の体験がベースになっていることは否定できない。

しかしながら、何が事実でなにが創作、どこまでホントでどこからフィクションかと訊かれても、これも正確にはよく分からない。というよりは、一旦、詩を書きはじめたら、感情と言葉は完全に開放の状態になる。真実かフィクションかということよりも作品に入り込み、どっぷり浸ってその世界をより鮮かに描こうとする意識しかない。それは真剣勝負である。詩作は私にとって、のんべんだらりと暮らす日常のなかで強力なスパイスとなっている。

次に連載中の長編小説のことについて語っておきたい。その小説は〈まえがき〉にも書いているように、長年の仕事から解放され、念願であった〈ものを書くこと〉に一気に突入して書いたものである。小説を書くということのイロハすら分かっていない私が、勢いだけで書き上げた初作である。怖いもの知らずとはあのことだ。半年以上かけて書いた力作だからと、大胆にも某文学賞に応募してみたのである。

結果はみごとに落選、それどころか一次選考すら通過できなかった。しかしそれは当然のことであった。提出直後から何かに憑かれたように多くの本を読みあさり、自分の書いたものがいかに未熟であるかを悟ったのだ。未だ日の目を見ずとも書き続けているツワモノ揃いが応募した作品数は約1000点。そんな中で初めて書いた未熟な作品に健闘せよと期待することが、どだい無理なことであった。あとで読み直せば、一次選考が越えられないのは火を見るよりも明らかであった。

反省すべき点が多々あるその作品の掲載を七月一週から始めた。もちろんそのままではとても公開できないから、リメイクをしながらの連載である。文体その他をいかほど進歩し向上させられるか分からないが、〈読みやすい文章〉を心がけて書き直している。落選後、部屋の隅で眠っていた原稿を出してきて、それを公表しようと考えたのは、この作品に対する思い入れの強さであろう。未熟であろうが下手であろうが、当時の私が主張したかったことが小説の中にギッシリ詰まっているからだ。

それら私が主張したかったことには、性に囚われない生き方や、囚われずに人を愛することの自由であり、あまり人に知られていない膠原病への理解がある。その二つのことをリュウという人物に背負わせ、その人との純愛を育てようとするナオ子が寄り添う。こう云うと、リュウとは私自身のことではないかと大半の人が思うだろう。マイノリティ、膠原病とくれば私だと捉えられても無理もない。

けれども、ここでもう一度だけ耳を傾けていただきたい。小説とは、あくまでフィクション(つくりごと)であって、ドキュメンタリーやノンフィクションではないのだ。詩についての部分でも述べたが、詩であれ小説であれ作者が投影されるのは当然のことである。初めての挑戦にもかかわらず、あの小説を書いている時、何かが私に降臨したかの如くスラスラと鉛筆が進んだ。前もって決めていたわけではないのに、原稿用紙を前にすると次から次へと空想の世界が広がり、右手が勝手にストーリーを展開させていった。面白いものである。

書かれていることには私自身の体験もあれば、まったくの創作の部分もある。それらは複雑に入り混じり、分離不可能である。それよりも、作者としては登場人物や作品の世界に入り込んでほしいと願いたい。時には皆さんもリュウになり、ナオ子になり、あるいは二人を温く見守る人となり、かれらと共に喜び、悲しんでもらえれば嬉しい。塾の先生を辞めたばかりの私には他のキャラクターが浮かばなかったし、すぐにも書けるテーマはマイノリティと病気のことしかなかった。また、この二つはどうしても書いておきたいテーマでもあった。

これ以上云う必要はなかろう。「透けてゆく人」はフィクションである。フィクションであるからこそ書いている間じゅう愉しめた。ドキュメントや赤裸々な告白文を書いていたなら愉しむどころではなかったであろう。ものを書く以上、自分がベースになるのは当然だ。その上にどんな色を塗り重ねていくかが創作の愉しみである。これは一度ハマるとヤミツキになる。

もう一度だけ念を押しておこう。リュウは私ではない。私はリュウほど若くも美しくもなく、清冽ではない。しいて云うなら、リュウのようでありたかったという願望はあるかもしれない。ともあれこの小説は創作の愉しさを教えてくれた記念すべき初作である。どうか最後までお付き合い願えれば、これほど嬉しいことはない。創作は愉し。
2004年7月


前のひとり言 次のひとり言

ひとり言 INDEXへ