「手紙好き」

私は手紙が好きである。書くこと、もらうことの両方が好きなのだ。これは今に始まったことではなく、昔からそうだった。したがって、昨今では手紙を書く人がめっきり少なくなってしまったことは淋しいかぎりだ。今回は、手紙の良さについての私的見解をまとめてみたい。

古い方の人間になりつつある私の世代では、中高生の頃、「趣味は文通です」と胸を張って云う人が少なからずいた。学生が読む雑誌には、読者のページにかならず〈文通欄〉があった。そこでは誰もが名前、住所、年令、学校名などを掲載してもらい、文通友達を募っていた。今では考えられない超個人情報の開示である。しかし世も健全、それで困ったことが起ったということを身の周りで聞いたことはなかった。のどかな時代であった。懐古趣味はさておき、古来より人びとは美しい〈やまとことば〉で〈文(ふみ)〉を交わした。その習慣が風前の灯とあっては奮起せねばなるまい。

まずは電話の普及とともに文書での伝達が激減した。電話で仔細を伝えにくいものはファクシミリの登場で解消された。そして携帯電話やパソコンという強力な伝達機器が出現し、それが広く浸透した今、ますます手紙の出番がなくなってしまった。手紙などまだるっこしいという御意見に、時代錯誤の一言居士(いちげんこじ)のように異議を唱えるつもりはない。速さと便利さを重視し重宝とすることに異論はないのだ。けれども、手紙には手紙にしかない利点がある。それは逆説的だが、速さや便利さがないという利点なのだ。

〈手紙好き〉の弁

●書くことは相手を目の前に感じること

私は手紙をよく書くが、先にもらっていればそれを読み返し、前に広げて書き始める。質問に答えたり、同意をしたり感心したり、時には叱咤激励したりと、まるで目の前にいる相手に語りかけているような気持ちで書いている。私は何を書きはじめても没頭するが、手紙とて例外でなく、じきに何枚も書いてしまう。気のおけない人ほど気楽さからか枚数がかさむ。手紙を書くこと、それは相手を想う貴重な時間であり、談笑する楽しいひとときなのである。

●ひと文字ひと文字ずつ綴ってくれた嬉しさ

手紙を書くことを嫌がる人の理由に、字がまずいからというのがある。文章が下手だからというのもある。皆がペン字の先生ではなく書道家ではない。相手が読みやすい字を心がければよいのだ。また、我々は著述業ではないのだから、うまい文章を書く必要もない。意味が伝わればよいのだ。瞬時の〈漢字変換〉ではなく、一画一画を自分の手で書き進み、自分なりに文章を組み立ててゆけば充分である。手書きの手紙は機械による一律の文字ではなく、その人にしか書けない文字で文が綴られている。その温かさこそが手紙の真髄であり相手を喜ばせるものなのである。

●書き直しが可能であること

携帯やパソコンでのメールのやりとりでトラブルを経験した人は多い。表現力が稚拙な若年層だけでなく、大人同士でもメールの言葉による諍いや決裂は多いと聞く。その原因のひとつには、メールでは一瞬にして言葉が送られてしまうということがある。相手の言葉に気分を害し、感情的になったまま文字を打ち、エイッとばかりに送信する。後悔してもあとの祭りである。理性を失って吐いた言葉は、即座に相手に届いてしまうのだ。手紙ならばそうではない。感情を表わしすぎた部分は何度でも書き直しがきく。投函する前に心ゆくまで内容を吟味でき、破棄も書き直しもできるのは手紙の最大の利点である。

●手紙は何よりの思い出の品

皆さんと同じく私にも思い出の品がたくさんある。モノが捨てられない質(たち)であるから大小さまざまな思い出の品を眠らせている。人からもらった手紙やハガキ類もその仲間である。心をこめて書いてくれたものというのは、たやすく処分できるものではない。ふだんはそれら書簡のことを忘れているが、整理をしていてふと一通を取り出し読んでみると、タイムスリップしたかのように何年、ときには何十年も前に遡り、懐しくなることがある。手紙は自分と相手の過ぎし日々を物語る大切な品となるのである。

●口で云うより書く方が伝えやすいことも

知人に大の手紙嫌いがいる。けれども、あらたまった調子で不自然にかしこまった手紙が届くことがある。その内容は〈御礼〉と〈詫び〉に限られている。そんなことを書面で伝え合う仲ではないのだが、勝気な面をもつその人の性格を思えば、礼や詫びのみ手紙という手段を用いることは頷ける。人のことを例に挙げてしまったが、私も云いにくいことは手紙で人に伝えてきた。愛を告白する時、注意を与える時、そのとき云えなかった胸のうちを後で正確に伝えたい時などである。これらを伝えるには、熟慮して一文字ずつ書く手紙に勝るものはない。


このように、手紙には忘れられかけている利点がいくつかある。私は三度の食事よりも書くことが好きなくらいであるから、手紙を書くことも苦痛どころか楽しみである。大好きである。自分が好きだからといって嫌いな人に無理やり書けと押しつけるのはよくないが、思い出して欲しい。誰かの手紙に勇気づけられ、希望を見い出し、救われて喜んだことはないだろうか。それを思い起こし、もっと手紙でやりとりをしようと声を大にして言いたいのだ。

社会がどんなに機械化されて便利になっても、機械が人の心に取って代わることはできない。手紙の偉力たるやもの凄いのである。殺伐とした世の中になればなるほど、その重要性を感じてならない。近々、私は数名の若い人に苦言を呈さなければならない。もちろん、手紙にするつもりだ。こんな時こそ手紙の出番なのである。
2004年6月


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