「“テンネン”讃歌」

私は“テンネン”のようである。もしやと思ってはいたが、周りの人間も私のことをそう思っていることが判り、それは疑う余地のないことと認めざるをえなくなった。

“天然”という語は何を意味し、どんな使われ方をするのか。私などが聞きなれたものはまず“天然色”。カラー映画の旧称を“天然色映画”といった。現在はカラーの方が一般的であるから、白黒映画の方が“モノクロ”と表示されることがある。カラーがあたりまえになった現在、“天然色”は映画に関して死語になった。

“天然記念物”を広辞苑で引くと、「学術上価値の高い動植物や地質鉱物(それらの存する地域を含む)で、その保護保存を主務官庁から指定されたもの」とある。この場合の“天然”は自然と解釈してよいだろう。また、“天然もの”のウナギや魚は養殖ものより旨いとされ値段も高い。その他“天然パーマ”という語は今でも健在である。「生まれつきの縮れ毛」と辞書にあるが“天パ”と若い人は略して言う。ただし容貌に関する表現は心して使わなければ人に不愉快な思いをさせるので気をつけたい。

“天然”とはこのように、“自然”そのものや手を加えない“自然な状態”、あるいは“生まれつき”“生まれついたままの状態”を指す。では近頃よく耳にする用法で人間に対して使われる場合について考察してみよう。それにはまず漫才を思い浮かべてもらいたい。漫才には“ボケ”と“ツッコミ”の役割がある。漫才師たちは仕事であるから、それぞれの役をうまく演じている。もちろん“ボケ”も職業上のこと、徹頭徹尾ボケて客を笑わせるのは頭が良くなければできないことである。

ところが「あの人って天然ね」と形容される人たちは、意識せずしてズレており、そのズレがなんともオカシイ人のことである。人ごとのように言うのは、自分がかれらと同類であるとは思っていなかったからだ。泣く子も黙るコワイ先生は、ホンワカした生徒に「キミは天然だよね。そこがいいんだよね」などとのたまい、自分も天然であるとゆめゆめ思っていなかったのである。いつも当事者は自分のことは見えていないものなのだ。

病気をして寺小屋を縮小し、店じまいが迫ったある時のこと、大学入試を目指す生徒たちに「私はテンネンだろうか」と訊いてみた。女の子たちは顔を見合わせクスリと笑い、男の子もニヤニヤ笑って黙っている。と、その時である。最前列の正面にかならず座るY子が答えた。「ハイ、そう思います。先生はテンネンです」。不思議な静寂が訪れた。

ひと呼吸おいて「やっぱりそうですか」と私が言うと、自信にみちてY子はコックリと頷いた。ほかの生徒たちはアッケにとられ、「あ〜あ」というような表情で、おそるおそる私を見つめた。Y子に言われるとは思いもよらなかった。彼女は最も成績優秀にして好奇心旺盛、責任感は強く性格明朗、行動力においては右に出る者はいない。しかし、である。Y子こそ皆が公認の“超テンネン娘”であったからだ。そのY子に私はテンネンだと言われたのだ。

その頃から私は天然化してきたのだろうか。それとも私の“テンネン”は、それこそ“天然もの”であったのだろうか。それはわからない。Y子にだけではなく、その後いろいろな人に私は天然であることを指摘された。口角、泡をとばして何かについて論じたり怒ったりしたあと、聴いていた相手はクスリと笑うのである。そしてひと言、「マジメやなあ」とつぶやく。あるいは「そんなこと本気で思ってるの」とか「カワイイッ!」などと言われることもある。そこで「どうせ私はテンネンだ」と自分で言うと、相手は笑いをこらえて「ウン、ウン」と頷くのだ。

天然だと人に言われて、同じように呼ばれる人たちを観察してみることにした。ひと口に天然といっても様々なテンネンがある。が、かれらは一様に勤勉にも自身の天然度グレードアップに日夜つとめる努力家だ。しかしそこはテンネン、無自覚のうちに自らを切磋琢磨し一路おのおのの“天然道”を明るくマイ進し続けているのである。

かく言う私もあらゆる制約から自分を解放し、のびのび生きればそれに比例して“テンネン化”は進んできたような気がする。どのようにすれば進行は食いとめられるのだろうか。いやいや、無理に食いとめる必要はないのだ。不自然に自分を抑えるのはシンドイことである。それならいっそのこと肯定し、人に迷惑をかけない“明るいテンネン”を目指したい。そこで自身を鼓舞するためにも、“テンネンびと”の長所と社会における貢献度に対して認識を促すために“テンネン讃歌”を詠んでみた。


  テンネン讃歌

 かれらは春風である
 予期せぬとき訪れて
 春がすみの空を吹き荒れる
 埃っぽさや虚しさを運んでは
 ひとり笑いながら気ままに去る

 かれらは赤ん坊である
 汚れを知らぬ澄んだ目と
 無垢な心で人に接する
 ときにはワガママに手をやくが
 ひとり機嫌よく語っては遊ぶ

 かれらは大木である
 何が起きても動じずに
 大地に根を張り揺るがない
 雨ニモ風ニモ冬ノ寒サニモ負ケズ
 ひとりクスノキのごとく生い茂る

 かれらは大海原である
 どんな船が来ようとも
 ようこそと笑顔で招き入れるが
 シケの日には大荒れになり
 ひとり凪には茫洋として空を仰ぐ

 かれらは宇宙である
 ほかの星で何が起ころうとも
 ワタシはワタシとマイペース
 何億光年の単位でものを考え
 ひとり思索に耽って精進する

 テンネンびとよ
 テンネンであることは素晴しい
 テンネンであることに胸を張れ
 信じる道をひた走れ


すべてのテンネンびと達よ。「和をもって尊しとなす」。これさえ心の隅に置いておけばよい。我らは人畜無害、むしろ殺伐たる現代の人間関係に潤いを与える存在となりうるのだ。さあ一緒に進もう、テンネン街道まっしぐら。
2004年3月


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