「等身大の生き方」 −夢と幸せの行方は−

近頃、ようやく何ものにも囚われずに生きられるようになってきたなと思う。囚われてきたものとは、悲しみや後悔といった「負」の要素ばかりではない。夢や希望、幸せといったものまでもが、時には囚われの要因となることがある。

私は夢ばかり見ている人間であった。小学生の頃にはスチュワーデス(現在は機内乗務員と呼ぶ)になりたかった。高学年になると、ズイヒツカ(随筆家)に憧れた。中学生になると一変して暗くなり、太宰やなんかばかり読み、夢など何も持たなかった。けれども、心のどこかで“モノ書き”に憧れは抱き続けていたかもしれない。それが高校生になると、こんどは舞台女優に憧れるようになった。その頃は、自身の性別に今ほど違和感を持っていなかったことがうかがえる。

私たちは成長するにつれ、自分の頭脳や能力、容貌などのレベル、親の社会的な位置や社会における現実の厳しさが解ってくる。それに伴い、温めていた夢にも罅(ひび)が入り、壊れはじめる。それでも、ひとつ夢を砕いたら、こんどは入手可能な夢にすり替え、私たちは将来に望みを見出しながら時を経てゆくのである。しかし、縮小したり濃度を薄めた夢を叶えたとしても、私たち人間は満足することが不得手な生き物のようである。

夢をもつことは、いいことだと教わった。私も大小さまざまな夢を持ち、叶えられたり叶わなかったりして現在に至っている。叶えられた夢よりも、叶わなかった夢の方にばかり目がいくのも私たちの哀しい習性であろうか。一方、叶った夢の方は、その瞬間から現実となり、みるみる喜びは薄れ、あんなに切望していたことすら忘れてしまうのである。人間は勝手な生き物のようである。

次に幸せについて考えてみよう。幸せとは何か。くり返し問われてきた質問に、適確に答えられる人は少ない。人によって価値観が異なり、幸せの定義も異なるわけであるから、それは当然である。また、人生でいろいろなことを経験する過程において、個人個人が持つ幸せの概念は常に形を変えて移ろうものだ。結局のところ、夢や幸せを定義づけることも、それらを掌中に納めたと実感することも難しいことのように思える。

私には今、かつて夢と呼んだような類のものはない。夢も希望もコレといって特にない。それならば不幸せかといえば、そうでもない。では、幸せかと訊かれれば、迷わず「ハイ」とも云えない。けれど現在の生活は、時間に追われて全力疾走していた頃に、いつも夢に見ていたもののはずだ。自然が豊かな所に住みたいとも願っていた。その点では、夢は叶えられ、私は幸せなのだろう。予期せぬ不幸を併せ持つことさえなかったのならば。

「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」といつかも書いた。年令を重ねるにつれ、その通りだと感じる。何かが満たされ叶えられると、別のところが壊され穴があいてしまう。幸せと不しあわせは交互や同時にやってくるようだ。

この“夢や幸せが壊れた時”こそが踏んばりどころなのである。その時にヤケを起こして潰れてしまうか、気をとり直して奮起するかが、その後の人生を大きく左右する。奮起ができないというならば、せめて諦める技術を身につけなければならない。

サイト内で何度か語ったが、諦めるとは「明らかに見きわめること」である。「諦観」という言葉にも「@あきらかに本質をみることAあきらめてながめること。さとりの境地にあって物ごとをみること」とある。決して投げやりになることではない。夢は所詮、夢。叶わないから夢なのだと、あきらかに本質を見きわめれば、これで良かったのだと納得できるものだ。

若いうちは自分を実際より大きく捉え、いつかは何かをやるのだというギラギラした野心を剥き出しにする。自身の内にある無限の可能性を信じている。そうして目標に向かって突っ走るが、その時は、まさに“夢を見ている真最中”なのだ。次第に自己の限界を知り、現実に目を向ければ、ただの凡人である自分がアクセクしていたことに気付く。

若い人たちの学習能力を伸ばすことに、長い年月を費してきたが、そこでも個人のもつ能力には限界があることを知った。それを知りつつ、最大限まで引き上げるのが私の役目であった。想像を超える伸び方をする生徒たちに何度も目を見張った。しかし悲しい哉、やはり限界はあるのだ。けれども、そこまで達することができた生徒たちは笑顔で卒業していった。かれらはあきらかに見きわめ、満たされた気持ちで人生の次の階段へと向かっていった。

私たちの大部分は凡人である。それを大前提とし、生きなければならない。今の自分が満たされないのは不運だとか、自分の能力が低いからだと嘆いても何も始まらない。必要以上に自分を大きく見せようとしてはならない。過信してはならないし、卑下してもいけない。ありのままの自分を受け容れ、身の丈に合った「等身大の生き方」をすればよいのだ。そこに満足感を見出した時、確実に一段ステップを昇っているはずなのだから。

今日に至るまで、私も葛藤を経て、さまざまな事柄に折り合いをつけてきた。人に対し、ものに対し、自分自身に対しても。そして思う。こうして勝手気儘に書ける生活、これは幸せなことなのだと。足ることを知って、やっと私も等身大で生きることが心地良くなってきた。

さあ、君。君だよ、そこの君。嘆いてばかりいないで頭を上げろ。ホラ、もうすぐ桜が咲くぞ。肩の力を抜いていこうか。
2004年3月


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