「やはり右近は独学独習」

昨秋、文章の勉強をしようと思い立ち、とある文学学校の資料をネットで取り寄せた。折りあしく秋期募集は締め切られたばかりで、講議や通信添削指導は開始されていた。次回は半年先の翌春だというので、その時まで待つことにした。それがこの春である。

そんなことを考えたのは、進歩のない自分の文に嫌気がさしていたからだ。マンネリズムでワンパターンの変わりばえのしない文章に飽きたらなくなってきていたのだ。それを打開し良い文章を書くためには、一度、正式に習うのがいいと考えたわけである。四月開講というのでのんびり構えていたところ、二月には学校側から封書が送られてきた。行き届いた対応には嬉しかった。

封を切ると入学案内を兼ねた機関誌と入学申込み書が出てきた。さっそく機関誌を開いて読んだ。今年は創立五十周年にあたるとのことで、記念祭の講演会など催しについてや、講座内容、講師の紹介も掲載されていた。さすがに文学学校、講師陣の自己紹介文は名文ぞろいである。ほとんどの方々が卒業生で私よりもお年は上、句読点の打ち方は基本に忠実、従来の正しい語法を完璧に守った解りやすい文ばかりである。(あたりまえか)ため息をつきながら三十数名の先生方の文を読み終えた。

それから私は、その封筒を一ヶ月以上も棚に上げたままにしていた。三月に入り、そろそろ申込み書を郵送したり授業料も払い込まなければと思って棚に目をやったが、封筒に手が伸びない。まだいいかと打ち遣っているのだ。田辺聖子氏なら記念講演を聴きに行こうか、体験授業に参加してみようかなど別の角度からの行動も考えたけれど、どれもあまり気が進まない。申込み書に性別を書くのも億劫であったため、記入もせず何も行動を起こさないまま日が過ぎた。

去年の秋にはあんなに切実に思えた“文章を学ぶこと”への情熱は、いったい何処へ行ってしまったのだろうか。昔から何ごとも決めれば行動は早い方であったが、この遅怠は何であろうか。そうこうしているうち締め切りの日が迫り、いよいよ結論を出さなければならなくなった。それで仕方なく入学を躊躇する理由を胸に手を当てて考えてみることにした。その結果、以下のことが判明した。

◎“課題作品提出”と“スクーリング”の少なさに不満

入学するにあたり、私は病弱系なので通信生を選ぶつもりでいた。ひたすら家で書くことなら私にもできると自信がある。〈詩・エッセイコース〉と〈小説コース〉の選択には迷ったが、週二回の通学生か通信生かの選択には迷いはなかった。しかし、通信生のスケジュールを見ると、課題となる作品提出が半年で二回しかなく、スクーリングも二日しかない。大学の通信教育に比べ、それらが格段に少ないことには大いに失望させられた。一歩後退。

◎今さら“難解な詩や小説”の勉強は不要か

〈詩・エッセイコース〉に決めようと、(でも、詩とエッセイがなぜ一つなのだろう)講師陣が詩について語っているのをHPで読んでみたが難しい。詩とは私のニガテな“現代詩”のようである。それらが理解できないから、これは困ったことである。エッセイは多少は書き慣れているつもりだが、これも難しいのだろうか。また、機関誌には通学生の“小説”が載っていたが、読むに堪えず十数行でギブアップしてしまった。(ゴメンナサイ)私は詩や小説を、不必要に難しく書くものだと思っていない。すべてを難しく捉えているような堅苦しさに、私の意欲は減退した。三歩後退。

◎やっぱりニガテな“群れること”

私は“人間嫌い”のヘンコツではないが、“群れること”が嫌いである。機関誌には群れている写真がたくさんあり、脚がすくんでしまいそうだ。クラスごとの合評会はやむをえないとして、夏季合宿など堪えがたい。遠足のようなものにも参加したくないし、おでん屋の出店をして皆で楽しむことなどは、何が何でも御免である。群れて学ぶのは構わないが、群れて交流というのが私には苦痛以外の何ものでもない。十歩後退。

◎文はやはり“独習”すべきか

つまるところコレが最大の理由なのだ。文章を向上させたいという意思は相変らず強い。だが一方で、文とは人に教えてもらうものであろうか(いや、そうではない)という考えが消えてくれない。昔は文章教室も文学学校もなかっただろうけれど、モノ書きたちは素晴しい文章を書いた。噺家の修行のように尊敬する作家に“弟子入り”したり、手本とする作品を暗記するほど読み込んで躯に沁み込ませたものだとも聞く。やはり文は独りで学ぶものであろうか。百歩後退。

もう結論は出たようなものである。二ヶ月ほど悩んでいたが、学校入学は見合わせることにしよう。群れるのが嫌いと云いながら、私は一旦その輪に入ってしまうと、責任感からか性格なのか、気がつけば皆をシキり、必ず輪の中心に君臨する。そうなのだ。役者志望であったし先生であっただけにrole playing(役割演技)は得意なのだ。しかしそれは本来の自分、素の私ではないため、きっとストレスをためることになる。文章を学ぶ場で私が望むことは、人との出会いよりは一にも二にも文章上達の勉強なのである。“仕切りたがり”にはもうなりたくない。

もう一つ。ここまで書いたなら正直にすべてを話すべきであろう。もしも病気を持っていなければ、私はきっと、“人と大いに関わる自分”と“独りを愉しむ自分”の両方を、うまくenjoyするのであろう。つまり私には、社交的な部分と内向的な部分があるのだ。けれども体力がなくなってきたことにより、現在は社交的な部分に覆いをかけて暮している。どうアガいても健常な人たちと同じようには動けないからだ。それでも頑張ってしまい、心身ともに無理をすることは明らかである。これも“後退”理由のひとつである。

私は自他ともに認める“独りが大好き人間”である。子どもの頃からそうであった。Y学園でも群れずに独りを通していた。ふたたび云うが、私は人間嫌いではない。独りが一番好きなだけなのだ。独りは本当に気楽でよい。だいたい“学校嫌い”の独り大好き人間が、文学学校の生徒になろうなどということが、そもそもの間違いであった。ああでもない、こうでもないと消しゴムのカスだらけになり、書き損じの原稿用紙が山となろうが、水無月右近は独りで精進するのが似合っている。そのことに気がついた。

人づきあいも望まぬならば、せぬが賢明。学ぶことの基本は独学独習。これまで通り愉しみながら、独りゴソゴソと書いてゆくとしましょうか。桜は満開、春爛漫。どれ、そろりと参ろうか。
2004年4月


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