右近庵での愉しみ

埃っぽい春がやっと終わった。毎年のように不調の時期をおとなしく堪えていた。そうしているうちに裏山は新緑に彩られ、五月らしくはなってきたが、今年は妙な感じである。寒かったり暑かったり、何だかいつもの「風薫る五月」ではない。ともあれ五月である。

冬の右近庵は、この世の涯てのようで荒涼としてもの哀しいが、春から秋の3シーズンはケッコウいいのである。ご存知のように、野菜は世話が大変で、今年は庭に野菜ではなく花をたくさん植えた。ひとり暮らしにはせっかくできた野菜も持てあますのだ。近所へのおすそ分けをと思っても、このあたりでは皆が庭や畑を愉しみ、両隣などは本格的に野菜を育てるプロのごとくである。恥ずかしくて私の作った野菜など差し出せない。漬物やトマトソースにするにも限界がある。それで花にした。

Hiroshiは花がたいそう好きであった。いろいろな花を植え、年中何かしら咲かせて目を愉しませてくれた。それらは私のためであったのだろうが、私はキレイだと誉めはしたが、それほど花への思い入れはなかった。彼の亡きあと野菜は実をつけ、花は咲いた。野菜は一年で終わるが、花は翌年にも庭のあちこちに咲いた。彼の植えた花がまた咲いた喜びから、私は花に興味を持ち始めた。

花はただ眺めるのもよいが、花々の写真を撮ってサイトに掲載すると喜ばれるかと思い、「右近庵の庭」というページを加えた。2005年はHiroshiのあとを継がなければと、花も野菜も我武者羅に植えたが、昨年はそれほど庭に入れ込まず、サイトでの公開は二年ぶりのことである。いったん何かに関れば、ある程度入り込んでしまうのが私の癖である。やるならキッチリと、と思ってノートを作って記録を始めた。それぞれの花の性質や、一年草か多年草かも調べて書きとめ、いつ、どこに何を植えたかも書いておきたい。植えたからには美しく長く咲かせてやりたいと思うからだ。

インターネットは便利である。プロからアマまで、花に関するサイトは多々ある。花のことを調べたり情報を得るのにとても有難い。花のことを調べ始めたら、Hiroshiは何て植えっ放しであったのかとも思う。彼は咲き終わった草花を、球根以外は全部を根こそぎ抜いてしまうのだった。一年草はそれでいいが、宿根草(多年草)は咲き終わったあとも大事にすれば、翌年にまた花を咲かせてくれる。次々に新しい別の草花をというのは彼らしいやり方ではあるが、私は植物の再生力に執着し、咲き続けるかぎり咲かせたいと考えている。

近頃、毎日のようにHiroshiの愛用していたデジカメとケイタイで花の写真を撮っているが、もっとキレイに撮りたいという欲が出てきた。それで一眼レフが欲しくなった。フィルムカメラの一眼レフはあるが、デジカメのを持っていない。便利さではデジカメが勝る。買おうかな。Hiroshiも持っていなかったオトコ的なモノを私が買うと、彼は口惜しがるであろうか。パソコンにしろカメラにしろ、愉しみ始めればそれに関連する欲しいモノがいろいろ出てくる。今頃になって彼の気持ちがよく分かる。面白いコト、面白いモノは世の中にワンサとあるものだ。

片づけも、小説や体調不良で中断をくり返しながら続行している。最初はどこから手をつけてよいのやらとクラクラしたが、やるうちに何となく家の中が空いてきた。見えない所も空いてきている。片付けの最中には、なんでこんなモノまで置いていたのかというシロモノも出てきて失笑することもしばしばで愉しい。また、引越し後、未開梱のままの箱も物置にあり、箱に書かれてあるモノが出てきて歓喜する。往年のレコードやビートルズの雑誌や切り抜き、子どもの頃の日記などは目にして頬がゆるむモノたちである。これらは捨てることなどできない。

遺品の整理や処分も進んでいる。当時は何ひとつ手放せないと思ったが、できるようになったのである。いちばん進んでいるのは服であるが、靴も貰ってくださる人に送り始めている。片付けながら、あらためてHiroshiという人はモノに支配されていたのだと嘆息する。捨てるべきモノを箱に詰めてしまい込み、そのうえモノを買うのは頻繁で、何でもかんでも多めに予備まで買って保存しておくということを常にしていた。なぜか。コンピューター関連のソフト、ハードに関しても、ウンザリするほど置いてある。それにはモノを大切にするというのとは違った、一種ビョー的なものさえ感じるのである。それら服や靴以外はまだ整理中で処分に至らない。幸い彼の部屋に残る彼の匂いにも、胸が潰れるほどの悲しみはなく、「なんでこんなにあるの?」と尋ねながら彼の部屋の整理をするのは、彼との愉しい語らいのひとときである。

そのほか、遅ればせながらパソコンも大いに愉しんでいる。この文明の利器はこんなこともできる、あんなこともできると驚嘆の連続である。機械オンチだとハナから諦めていた私がと、自分でもびっくりするほどのハマリようである。私の生活には音楽が不可欠なので、音楽を中心にポッドキャスト(インターネット経由で自動配信される番組、あるいはその仕組みをさす。ポッドキャスティングともいう。)をもっともっと愉しもうと思う。文学作品の朗読なども聞いてみたい。(アップルホームページからiTunesに。XPならiTunesフリーダウンロード可能です。)絵も嫌いな方ではないから、アート関連も愉しみたいし、フリーソフトを使って、ふえる一方の写真をうまく整理して、アルバムやCDにまとめるのも面白そうである。カメラにパソコン。これらはもっぱらHiroshiの担当であったので、真剣な顔で取り組んでいる私を、彼はどんな顔で見ているのであろう。

振り返れば、私は実にHiroshiに依存していた。自分でするべきことも何もかも、彼まかせであった。病気を持ってからは尚そうなっていた。浪費癖はあったが人一倍マメな彼は、料理以外のすべてのことができたので、私は何もできない人間になっていた。今、私はたいていのことができるという自信がある。やってできないことなどない。大胆にもそう思う。思いたい。

だが、ビョーキ持ちの私は、何をするにもホドホドを心がけなければならない。直射日光を避け、強風に当たらず、乾燥防止のための目・鼻・口のケアを怠らず、ストレスを溜め込まず、無理をしなければ、右近庵で愉しめることはたくさんある。いろいろなことが愉しいと思えるまでになったことを神に感謝したいような気分である。

花が咲き、ウグイスが啼き、新緑が映え、猫たちが居てカエルが鳴くここ右近庵の小宇宙では、愉しみは無限に拡がる。
お〜いカエルたち、ツボカビにはくれぐれも気をつけて合唱してくれよ。

2007年5月17日 

         
前の日常 次の日常

右近的 INDEXへ