人間の単位

Hiroshiの没後、暮しのなかで理不尽さを感じることがある。最も不愉快なことは、人間を夫婦もしくは平均的な4人家族をひとつの単位として社会が回っていることである。

私たちのすぐ上に団塊の世代が居る。かれらの定年退職に向け、証券会社や銀行は金融商品の宣伝に躍起である。旅行社は退職後の夫婦旅行、デパートでは熟年が好む商品を揃え、高価なダイヤを妻への感謝として贈りましょうというのもある。定年後こそが夫婦の至福のときと思い込ませるイメージ広告ばかりが溢れている。Hiroshiは定年を迎えずして逝ってしまった。私のように独りになってしまった人も世の中には少なからず居るであろうし、定年退職したからといって、皆が皆、大金を手にするわけではないであろう。定年退職商戦たけなわの昨今、すべてはお洒落な熟年夫婦を理想像のように消費者に input する企業が流す映像が目に入ると、私はリモコンに手を伸ばしてスイッチを切る。

また、私はNHKを主に観るが、アルツハイマーや認知症のドキュメンタリー番組がよく放映される。病気持ちの私は病気全般の知識を得るために、その類のものを進んで観ている。ところが、これらの番組に登場する人たちは、なぜかいつも何組かの夫婦なのである。そして病気の情報や知識を提供するよりも、意地悪く云えば、番組は涙、涙の夫婦の苦労話特集になっているのである。病気を発病するのは配偶者が健在で健常な夫婦ばかりではない。いったいぜんたい病気のことを特集するのに、なぜお決まりのように夫婦単位で出演者を揃えるのか。涙ながらに介護の苦労を訴えたり、日常の様子を視聴者に見せるのもよいが、報道において重要なことは情的なことではなく、正しい知識と情報の提供であろう。それにNHKは配偶者を亡くした者も観ていることに配慮して番組製作をしてはどうか。ひとり残った人が、これらの病気になることだって多々あるはずだ。それから蛇足であるが、片方が病気を持ち、2人して闘うのになぜ涙なのか。介護する間もなく逝かせてしまった者からすれば、生きて共に病気に立ち向かえることは羨ましいことでさえあるのだから。

このようにメディアはたいてい夫婦をひとつの単位として取り扱う。しかし人間だれしも命に限りがある。夫婦とてどちらかが先に逝くのが常である。一緒に逝けたらと願う人は多いであろうが、大方の場合、逝くのは1人で1人が残る。夫婦でなくとも人は通常1人で逝くのである。ここまで書いて、私は愚痴を云っていると誤解されていないかと気になるが、話を続けよう。メディアや商戦はさておき、世のご夫婦に忠告しておきたいことがある。どうか、いつ突然に夫が妻が逝ったとしても、死に至る病に冒されても、悔いのない毎日を常日頃から送っていただきたい。テレビCMのようなロマンチックでキザなことばかりが愛情表現ではなく、何気ない毎日にこそ幸せはある。日常生活を一番大切にすることを、くれぐれもお忘れなく。多くの後悔を残した私から、世のご夫婦へ贈るメッセージである。

さて、次は家庭について語ろう。わが国の平均的家族数は4人であろう。私は4人きょうだいで、祖父母も一緒に住んでいたので、子ども時代は8人家族であった。そのうちに祖父が他界、祖母も他界して6人になった。姉が嫁ぎ、兄たちも家庭を持ち、両親と私だけになった。そして私も家庭を持って両親は2人きりになった。その後、父が他界し、母は1人になってしまった。これは自然な流れである。そのとき母はすでに老人性うつ病で感情を持たぬ人となっていたから、幸か不幸か深い悲しみも孤独感も味わうことがなかった。

私もHiroshiと2人の娘の4人家族であった。妻として母として、女100パーセント時代の私は大いに幸せであり、自分が多数派に属している意識を持つことはなかった。長女が嫁いだあと家族は3人になり、次女が一人暮しを始めて私たちだけになったが、それも子どもを持てば自然な成りゆきとして受けとめた。ところがHiroshiが急逝し、たちまちわが家は“欠損家庭”になってしまった。私にとっては配偶者が、娘たちにとっては父親が欠けてしまったのだ。そのときから私は、Hiroshiとの終の住処と決めた右近庵に1人で住み、(正確には家猫3匹と外猫5匹も居るが)社会的に少数派に属することになった。こんなに早く1人になるというシュミレーションは私になかった。この予想外の状況に、初めは戸惑い面食った。私は何て孤独なんだと嘆きもしたが、どうすることもできない。

そんな私の気持ちを逆撫でするように“夫婦モノ”と同じく、メディアでは幸せな4人家族をイメージさせ、30代、40代をターゲットにしたワゴン車や家を売ろうというCMが頻繁に目に付く。車や家に限らずすべての商品は“ファミリー”を中心に売られている。それらの映像や新聞広告を、私は一抹の哀愁とともに見つめている。Hiroshiが居た頃は単に懐しく思うだけであったが、家族が欠けてから、それらを見るとき心が沈んでいくのが分かる。家族の歴史における移り変わりと理解しつつも、悲しくなるのは事実である。1人が欠けてしまってからは、楽しそうなファミリーの映像も、私には悲しいものに映るのだ。これは致し方ないことで、そのうちに慣れるであろう。まだ私は修行が足りない。

だが幸せを運ぶ平均的家族用のファミリーカーや、そのファミリーが住む家とは無関係に、世の中には結婚をせず生涯独身を通す男女も居る。あるいは結婚してもサッサと別れて母子や父子で暮している人たちも居る。子宝に恵まれなかった夫婦も居る。どこを見回しても4〜5人の家族という社会において、かれらの存在はマイノリティ(少数派)である。自身が寂しき独居となって改めて私は気がついた。独身で居たり、離婚して子育てをしている人たちは、生きづらいことが多々あろう。私のように型通りの家族に納まっていた者でも、その型から外れると生きづらい。大半の人生を「平均的家族」から外れて送ってきた人たちの苦労に今さらながら思いを馳せ、さぞかし風当たりがキツかったであろうと仲間意識を持つとともに、同情的になった次第である。

人間の基本単位とは何であろうか。長さは1mmや1m、重さは1gや1kgである。人間の単位は1人である。然るに世の中では当然のように夫婦だとか家族だとか複数を単位とするのはなぜか。年月が過ぎてその単位から外れ、平均的な枠から外れ、年老いて孤独になり、世間から冷たくあしらわれるのはなぜか。家族の変遷で、その結果として1人になることは誰にでも起こりうることである。そうなった時に世間に背を向けたくなるような今の社会とは何だ。「ひとり者差別」や「老人差別」、それに「片親家庭」に対する差別について、人ごとではないと考え始めたのは“美しくない国”に住んでいるからであろう。多数派に属した頃には感じなかったが私も、少数派に属して初めてその理不尽さを知った。

されど人は独り、みな独り。静かな憤りとは別に、動物がそうであるように、人間の単位は本来1人である。そのことを悟って前を向いて歩き始めた私に水をさすような世間の風に身を晒さぬように、私はここ右近庵にひっそり住んでいる。独りを愉しみながら猫や花と暮している。猫や花は私を傷つけることもなく、寂しい思いにもしない。今はカエルも加わりにぎやかである。嗚呼、心地よし右近庵。独りなど少しも怖くない。思い出だけでじゅうぶん私は生きられる。

2007年5月25日 

         
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