日々是好日(にちにちこれこうにち)

この夏の暑さは異常であったせいか、七月頃から三ヶ月ほども不調が続いた。衰弱しているところへ持病までが活発に動きだし、どうなることやらと思ったが、なんとかふだんの日常生活ができるようになった。嬉しいことである。

連載小説「明け方のウィスキー」は、後半のヤマ場で体調がひどく悪くなって困ったが、どうにかこうにか終了できた。その後すぐに次作を書き始めたが、駄目であった。構想は温めてあったが、いざ書き始めるとうまくいかない。枚数だけはふえるが文章にキレがない。気持ちの方も今ひとつ高揚しない。そのまま進んでも納得のいく仕上がりになりそうにないのでペンを置いた。いや、6Bの鉛筆を置いた。

ご承知のように、去年の今頃は「言葉屋」の連載中であった。二ヶ月ほどで143枚を書き、12月の賞に投稿してみたところ、一次選考を通過した。著名な賞だけに喜びもひとしおであったが、その喜びも束の間、二次を越えられなかった。私の書くものは古くさく、賞とは無縁だと思っていたが、第一段階で認めてもらえたことは嬉しかった。それで気を良くし、今年も投稿しようと考えていた。九月頃から三ヶ月かけて書くつもりでいた。しかし、ふと書き始めた“ウィスキー”が長くなり、さらに夏場の不調で停滞、投稿する小説を書く予定がズレ込んでいった。気持ちは焦れど“ウィスキー”もきちんと終わりたい。とくにラストは気を抜けない。まずは一作を仕上げることに力を注いだ。

その賞には二作まで投稿ができる。それならと欲を出し、二作出してやるぞと考えていたのだが、予定とはしばしば狂うものである。体調不良とあっては致し方なしとあきらめるとしよう。一作は書けているのだし、と自分を慰める。幸い“ウィスキー”は一応の完成をみた。丁寧に書き進んだが、再度、全編を推敲し、書き足りなかった部分は補い、不自然な部分は修正して改稿し、今年はコレ一本で行くか、という結論になった。

そう思ったとたん、気が楽になった。実を云えば、二作めを書こうと根を詰めると、めまいと耳鳴りが起きていた。「やばっ。恐怖のメニエール再来か」と焦った。「とび」の投稿前日に襲われたあの大揺れがまた来るのか。嵐の日に小船に乗せられ、波に翻弄されるような感覚は二度と御免である。それで私はアッサリと6Bを置いたのだ。体調はまだ万全でなく、寡作の私には充分な溜めも必要だと思われる。それならと私は喜々として他のことをし始めたのである。

ところでアソビ人でご隠居のような私は、さぞかし暇であろうと考える向きも居られるかと思うが、なんのなんの、するべきことが山積している。いったん執筆モードに入ると、もろもろの仕事が停滞する。もしくは木の枝を移動するナマケモノくらいのスピードでしかもろもろの事は進まない。書いているときは何がストップしても「そんなの関係な〜い」と意に介しない。ところが書くことの酔いから醒めると、否でも応でも現実を直視しなければならない。アレもコレもと、するべき事柄が津波のごとく押し寄せてくる。

こう云うと、アレやコレを仕方なくしていると思われるかもしれないが、そうではない。何もかもが愉しいのだ。掃除、洗濯、料理、モノ処分、遺品整理、衣替え、模様替え、それに庭。書くことから解放されて日常のこまごまとしたことをしていると、愉しくて仕方ない。書いているときは、これほど愉しいものは無いと思ってハマり込んで書いているクセに。このたびは、三ヶ月もの不調の間に動けない口惜しさが骨身に沁みていたからか、動いて日常のもろもろのことが出来る喜びがひとしおで、何でもかんでもがよけいに愉しく感じられるのかもしれない。

とは言え皆さんのように一日じゅう動ける訳ではなく、すぐに疲れてしまうので、筏(愛用のひのきスノコベッドのこと)に寝そべって猫とともに浮かんでいることもたびたびである。休憩の間にも、次はこうして、ああしてだとか、あれはバザーで、あれは処分、あそこのあれは、あっちに移動させてっとなどのシュミレーションをするのも愉しいことである。ご存知のように、私が取り組んでいるのはモノ減らしで、スッキリ暮らすために一念発起して頑張っている。近頃は家の中だけでなく、物置きの中や、庭のモノを雑然と置いている外回りまで手を拡げて片付けをしている。バザーに出したり、貰っていただいたり、あるいは捨てたりして処分をすると、スッキリして気分は爽快である。

庭のことや猫のことにも、するべきことが多くある。植物は一段落し、雑草の勢いも衰えてきたので楽になった。体調が今ひとつ良くないときにシソの実の収穫をしなければならなかったが、頑張ったおかげで今年は立派な実が採れた。植物は待ってくれないので、写真を撮るのも実を戴くのも「今だ」というときを逃せない。今後はタマネギと花の球根をセッセと植えなければならない。掘りあげたムスカリの球根が沢山あるので、「無料無人球根屋」を開くため、小袋に球根を分けたりもしなければならない。外猫たちのためには、そろそろ寒さよけの家を造ってやらないと。

そのほかにはパソコン独習再開や、不義理をしてしまった人たちに手紙やハガキの返事を書いたりもするつもりである。筏を和室へ移動することも考えている。そのために、まず和室の片付けに着手した。ベッドが入っても使い勝手が良いように家具を配置しなければならないからだ。筏の移動を考えたのは、誰が来ても居間で寛げない様子だからである。私は殿様のように筏の上に胡坐をかいてすわっているが、訪れた人は床に置いた座布団にすわり、私を見上げて喋るのである。時代劇の悪代官と町人のようでもある。これでは申し訳ないと思い、筏で浮かびたいときは奥の和室で浮かぼうと考えたのである。居間の中央には、やはり冬は炬燵であろう。ダッコ(長老猫・二十歳)も「うん、そうそう」と頷いている。

なんやかやと動いていると一日はすぐに終わる。(私の場合、いつが始まりで、いつが終わりか)いい気候になった。動いても汗だくにならないのは有難い。動くと空腹感があり、ひとりの食事もおいしく感じる。夏の間に減った体重も戻ることであろう。焼酎もシーズン・イン、毎夜の愉しみである。このように動いて日常生活を enjoy していると、パソコンを開ける回数が激減するのはなぜか。運営者はみずからのサイトを開けることもせず、メールチェックすら疎かになってしまう。なぜそうなるのか不思議ではある。(気候のいいときは訪問者も減るのではあるが)

禅の言葉に「日々是好日」というのがある。「にちにちこれこうにち」と読む。晴れた日を好しとし、雨の日は厭だというのではなく、晴れた日にはその好さがあり、雨の日にも晴れの日には無い好さがある。つまり、一年365日のすべてが好い日であるといった意味である。私は体がつらいとき、心まで萎えてしまいそうになる。病気を憎みそうにもなる。しかし、つらい日も好しとしなければなるまい。病気を持って様々なものが見えてきたし、苦痛に堪えることは私を強くする筈だ。雨の日があるから晴れの日が輝き、晴ればかり続くと雨の有難さを痛感する。つらい日があるから動ける喜びが大きいのだとつくづく思う。

人生には、幸せなときと辛いときがある。幸せな日と辛い日がある。幸せがあればこそ辛さが判り、辛さがあればこそ幸せが判る。日々是好日。今日も好し、あしたも好しである。この言葉の意味が、ようやく解ってきた水無月右近である。

2007年10月27日 

         
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