平成潮時考 (その2) 『2003.12〜2004.9』

かくして水無月右近の道行きは2003年11月、二年めの旅に突入する。おぼつかなかった足どりもしっかりし、振り返るとゾロゾロと同道の人びとが歩いておられる。袖ふれあうも多生の縁、それぞれの旅の途中を同道し、茶でも飲んで言葉を交わすのは楽しいことであるが、悲しい哉、インターネット上の架空の旅ではこちらからはお顔も判らず、お名前すらお訊ねできない。だいたいが私からして水無月右近などと妙ちきりんな名前である。もちろん本名ではない。

二年めになると、百枚つづりの大学ノートに書かれた日記には、あまりホームページの記録が無い。頻繁に外出をし、旅行にも行き(Hiroshiとではなく、ひとり旅か女性とである)、その様子やらその他は娘達が来た日のことなどが書かれている。前年の夏、Hiroshiの不祥事が与えたショックから鬱病にかかった私は、なんとか自力で回復し、積極的に活動していたことが判る。家の中で鬱々としてHiroshiとの関係に神経を張り詰めさせているよりは、外で遊んでいる方が楽しく、実によく遊んでいる。文字通り遊び人であった。あの頃は元気だったなぁ……。

元い。(「元へ」の訛ったもの)ホームページのことである。日記によると、2月1日にメッセージボード(以下MBとする)から右近通信を独立させたとある。ホームページ開設から半年後に付けたMBには、たくさんの人が訪れてくださったことは前回に述べた。客人のお言葉には、おひとりずつ丁寧にお返事をし、それとは別に「右近通信」というタイトルで、MB内に私が好き勝手に書いていたのであるが、その部分のみを残して独立させ、MBを終了したのだ。言いにくいことであるが、数名の困った人たちがMBで良からぬことをしてくださるからである。それで困り果て、自分ひとりで喋る方が気楽でいいと思って変更した訳である。それが旧右近通信である。MBにおイタした人たちは複数の人になって現れ、誰だか判らないと思っていたようであるが、ちゃんと把握していた。そんなこと、すぐに判るもんだよ。でも気を引くなら別の方法が有難かったかなぁ、ねぇ君たち。

2003年4月、「随想」のページを加える。日記には、洗練された文を書きたいと抱負を述べている。限られた枚数で、無駄のない情感あふれる美しい文章を書く練習をするつもりで始めたが、気負いすぎて更新が億劫となり、作品の数はいくらもない。その頃は随筆とか随想と呼ばれる文章が最も書きたかったのであろう。小説は無我夢中で長編一作を書いて気が済み、永久にナシだと思っていたのだ。因みにその我が初作は某賞にボツり、手元で休ませていたのだが、恥を覚悟で掲載に踏み切ることにした。6月30日の日記に「HP『透けてゆく人』のupに緊張」とあるところから、手直しをしながらの連載を始めたことが判る。この作品は後に好評を得、正式に評価されて嬉しかった。

その頃には私はHiroshiを完全に許していた。家の中で私は努めて明るく彼に接した。ところがHiroshiは反比例するようにさらに暗い表情になっていった。その理由は死後に判明する。会社では特に沈んだ様子も見せず、誘われれば飲みにも焼肉を食べにも行っていたと弔問に訪れた部下から聞いた。マンションを売って多額の借金を返済するも、彼の病的な浪費癖は治ることはなく、新たな借金を日々つくっていたのであった。私のテンネンにも程がある。彼は精神的に病んでいたのだ。またふえてゆく借金に、ひとり悩んで苦しんでいたのだ。浪費という病に苦しんでいたのだ。それでもHiroshiは更新日と決めた金曜日には一生懸命に早く帰ってきてパソコンの前に座った。待ち構えていた私は「これ」とその日upする原稿を差し出した。こんなHiroshiとの二人三脚だった道行は、2004年8月3日に絶たれてしまう。何のことわりも無く、突如として彼は逝ってしまったのであった。私の日記には、8月1日に長女と三人で花火を見た日のことが書き記され、そのあとが途切れてしまっている。

思い出すと息苦しくなるような辛いときを過ごし、ホームページは停滞した。しかし、右近通信ではいち早く重大事を知らせた。道行きが立ちゆかなくなったことを伝えなければならなかった。
Hiroshiの死は私を知る人には衝撃であったと思われる。私を知らない人にはHiroshiの存在そのものに驚き、彼の死にも驚いたことであろう。作品の更新はストップしたが、悲しみのなかで私は右近通信に即興で心情を書き綴り、詩のようなものを書き続けた。あふれ出る強い悲しみを言葉にした。それらをどなたが読んでくださっているのか判らぬまま、出さずにいられない感情をひたすら言葉にした。

悲しみと、ひと言では云えない様々な思いが私を占領し、いつ後を追うかもしれない危い日が続いた。目が覚めると汚泥に全身を浸し、胸の上には何トンもの重石が乗っていた。あぁ、まだ私は生きている。いつになれば死ねるのだろうと考えた。カーテンも開けず、人と会わず、電話にも出なかった。同じ経験をした人の温い言葉だけが身に沁みて嬉しかった。そんな中で、詩のようなものの数は右近通信にふえていった。来訪者の皆さんに読んでいただくためでなく、私は自分のために書き続けた。

このようなことになれば、この道行も一年八ヶ月で終わりかと考えもしたが、ふしぎにもこの旅が終わることが実感できなかった。Hiroshiが遺したものであるし、このサイトに私は生甲斐すら感じていたからであろうか。いつか再開できる。その思いが強かった。あの頃、いったい誰が、何人の人がボロボロの私を見守ってくださっていたのであろう。どなた様か判らぬが、あらためて感謝する次第である。

そんな苦しい日々の中、私を動かしたのは「小説の続きが読みたいです」という一通のメールであった。(その人は、いわゆるKYサン=空気を読めない人である。Hiroshiの死後すぐにお悔やみの手紙をくれたりもしたが、最初の数行以外は自分の近況報告が延々と書かれてあって驚かされた)今はそれどころじゃないやと少々腹立たしい気持ちもあったことは否定できない。しかし、そのメールは「そうだ、書かなければ」と私に気づかせてくれたのである。折しも「透けてゆく人」の連載を始めたばかりであった。読みたい。書いて欲しい。この声が悲しみの汚泥の底に這いつくばっていた私に「立たなければ」と思わせたのだ。S君、ありがとう。感謝してるよ。

それから私は原稿を取り出し、ひたすら手直しをした。その作業をしている時は、没頭して悲しみを忘れることができた。小説を再開するなら他のページもと考える余裕ができていた。よし! また書くぞ。そう思えば行動が早かった。正式にサイト再開を宣言し、その日を2004年10月1日と定めた。久しぶりに文を書き、詩も加えて準備を整えた。かくして9月の末に皆さんにお知らせし、あとはその日を待つばかりとなったのである。

                             (つづく)

2007年12月16日 

         
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