平成潮時考 (その3) 『2004.10〜2005.12』

これまでの人生の中で最大の悲劇に直面し、私は再起不能と思われたが、二ヶ月のブランクを埋めるべく奮起した。
10月1日になった。さて復活だと意気込んでいたところへ、信じられないことが起こった。「平成道行考」が消えているのだ。「そ、そんな馬鹿な……」と思わず目を疑ったが、我がサイトは跡形もなく消えていた。それは冷たくなったHiroshiを発見した時と同じくらいの衝撃でもあった。彼が懸命に立ち上げたサイトを復活させようとした日に、とんでもないことが起きたのだった。

思い出しても胸糞が悪いが、nifty の手違いにより、Hiroshiの名で成された契約が、この日に切れたからホームページが消されてしまったのだ。しかしこれには訳がある。金融機関に解約届けが出ているので、引き落としが出来なくなる。そうすると、事務的に処理されて nifty とも解約になり、HPが突然に消されるかもしれない。それを危惧して電話をし、事情を話して私の名義に変更してHP運営に支障が出ないように手を打ったのだ。そのとき応対したNという女性は「解りました」と返事をした。「引き継ぐと、これまでと何も変らずHPも運営できますね」と念を押すと、「はい」と答えた。これで安心と思っていたのに哀れ「平成道行考」は消されてしまったのだった。

身体の力が抜けてしまい、立っていることが出来なかった。ソファに寝て「なんで…」と呆然としていた。しだいに怒りが込みあげてきた。こうなることを怖れて早めに連絡をして手続きの依頼をしたのにどういうことだ。あまりのショックに立ち上がる気もせず、しばらく私はフテくされていた。10月1日午後3時にHiroshiの契約が切れてHPが吹っ飛んでしまったのだった。もう辞めておけ、HPを閉じろということか。そんな気もして一度はヤル気を起こしたが、閉じるべきかと考えたりもした。

しかし私は考えを改めた。作品のすべてが吹っ飛んだ訳ではない。全部ボコちゃん(前のMeのPC)に入っている。ただ残念なことに、nifty からの無料レンタルであったメッセージボードが nifty の一瞬の操作ですべて消えてしまった。2003年6月から2004年8月までの15ヶ月に及ぶ言葉が、宇宙の彼方へ雲散霧消してしまったのである。惜しかったのは訪問者の皆さんが書いてくださった言葉である。Hiroshiの急逝から書き綴った日々の悲しみの私の言葉である。それ以外の右近のつまらぬ喋りなど、どうでもよかった。それらが失われたことは私にとって大きな大きな損失であった。

どうにかして取り戻せないかと nifty に掛け合ったが駄目であった。プロバイダーの手によって消された一個人のデータなど、何処にも残っていないのである。道行考が検索エンジンで上位にあったことなどどうでもよかった。URLやドメインを取り直してすぐにHPを再開できることも判った。しかし、しかし、いただいた温い言葉の数々や、叫びのような私の言葉はどうやっても戻しようがないのである。おのれ nifty 、にっくき nifty 、謝るどころか居直ったN嬢、ハラワタが煮えくり返るとはあのことであった。あぁ、思い出しても腹が立つ。

驚いたのは私だけではない。いつも訪れていたサイトが、突如として消えることは無きにしもあらずだが、こと右近においては「前ぶれなく」は、あり得ないことである。しかし実際に無くなっていたのだから、さぞかし訪問者の方々は驚かれたであろう。リンクしていただいているサイトの運営者の皆さんにはURLの変更を至急依頼し、一日も早く検索エンジンか他のサイトから道行考のお客様が見つけてくださることを願っていた。泣きっ面に蜂。あの頃は踏んだり蹴ったりであった。振り返ると苦笑するも少しばかり懐しい。

お一人、お二人と常連さんが戻って来られ、我がサイトには再び活気が戻ってきた。水無月右近も道行考も、意外に打たれ強いのである。この一ヶ月半後の2004年11月29日にはRyoさんも右近に負けじと「愛別離苦」をスタートさせた。吹っ飛んでしまった悲しみの言葉を私は空中を飛び回って拾い集め、詩集の形に調えた。それは執念であった。今にして思えば、失われた悲の感情と悲の言葉を、凄じい執念で、心の詩集として蘇えらせたのである。

道行考に話を戻そう。2004年の終わりから2005年の一年間は死別の衝撃から立ち直ってはいない。2005年の日記も3月になってやっと書き始めている。2月28日「透けてゆく人」最終回とある。そのあと、3月11日には、文芸社の説明会に行くとある。Hiroshiが実現させたがっていた本の出版をすることにしたからだ。法外な金額ではあったが、私の頭には一刻も早く書いたものを形にしてHiroshiを喜ばせようと思っていたので契約をした。10月1日に晴れて出版できたのである。

頑張ろうとするも悲しみや悔いに引き戻され、たびたび落ち込んでいる様子が日記から判る。般若心経について書いた本を読んでいると安らぐと日記にあり、仏教に近づいたのが2005年の春頃だというのも判る。この年は創作をするというよりも、無理に動き、悲しみを紛らすように書いた。したがって「愛別離苦」の方に文を多く書いている。しかし「ひとり言」も2005年には「日常」が14、「思考」が12という数になっており、そこそこ書けていたのだなと振り返る。

8月には一周忌を迎えたが、その前後の落ち込みようは激しかった。娘たちはそれぞれに忙しいというのに、花火の日から命日まで傍に居て、私が落ち込まないように、明るく振舞い料理をしてくれた。この子たちが居て良かったとつくづく思ったことが書かれている。

HPの記録が日記にほとんど見当たらず、日常生活や猫の記述が多いが、9月11日に少し書いている。「選挙に一人で行った。ブログが伸びている。部屋を片付け始めた。和室で寝ようと思う。起きて「カノン」をかけると天井がミシミシといった。ふしぎだ。ブログやらトークやらで忙しく、小説への集中力が欠ける。どれもしっかりやらなければ。読書もしなければ。クロの具合が悪く、家に入れる。もうあまり長くないようだ」とある。

ここでのブログとは「ねぇ君」のことである。これはサイト訪問者以外の人々にも人気があったが、不心得者の出没に嫌気がさし、11月15日に「『ねぇ君』を休止する」と書いている。「小説」とは「天罰」のことである。意欲的に取り組んだつもりであったが、重いテーマを書けるほどに私はまだ快復しておらず、行き詰まってしまい、12月18日に「『天罰』休筆」と日記に書くに至っている。

懸命に歩き出そうとしている様子が窺えるが、まだまだ私は頼りなかった。また、この頃からネット悪にほとほと嫌気がさした。それに、投げかけても何も返って来ないネットの虚しさも大きくなり、いつまでこの旅が続けられるのかと思うこともしばしばであった。

2007年12月28日 

         
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