「愛別離苦」による出会い

S・Kさんが初めてメールをくださったのは5月の半ば過ぎであった。その内容に私は衝撃を受け、深い悲しみに包まれた。

彼女のメールには、宮城県在住であること、名前、年令が書かれ、その次には今年の3月半ばに夫を交通事故で亡くしたと綴られていた。彼女は現在28歳、亡くなられた旦那様は、ひとつ上の29歳であった。四十九日が過ぎて落ち着き、次に襲ってくる苦しみが何なのかと考えたとき、愛別離苦という言葉を知って検索したところ、私のHP「愛別離苦」にたどり着いたのだと彼女は云う。旦那様をなくしてまだ二ヶ月しか経っていないのだった。

「あなた様が書いた詩や文は、私がパパに対して思っていることの全てでした。涙をあまり流すことがなかったのですが、久しぶりに溢れて止まりません」

Hiroshiを悼むサイト「愛別離苦」は、昨秋、喪中による賀状欠礼の葉書発送と同時にupした。葬儀は密葬を選び、悲しみのあまり、私は人と接することを避けていた。しかし何らかの形で、お世話になった人々に報告しなければと思ったのである。したがって友人知人と、あとは「道行考」を訪れる皆さんが見てくださればいいと思っていたのだ。同じように死別の悲しみを抱えた人々とリンクしようとも考えなかった。自分の悲しみを綴る場として設けたのである。

そんな私が中原憬さん運営の、「愛する人を亡くした人のための100の言葉」というサイトにリンクしていただこうと考えたのは今春であった。やっと外に目を向けられるようになったのだ。昨秋、まだ悲しみの淵に沈んでいた頃、私は中原さんの数々の言葉に救われた。いつかはお礼をと思っていたので、リンクの申し出とともにメールを送った。するとすぐに「死別の悲しみの人のための癒しのサイト」の中にリンクしてくださり、丁寧なお返事をいただいた。カウンターは回転した。私は知らなかったのだが、大きなサイトとリンクしたからであろうか、一定期間はGoogleの1ページめに hit していたそうである。(現在は10ページめ)S・Kさんは、その折に数ある同名のサイトの中から、私の「愛別離苦」を見つけてくださったという。長い説明になってしまったが、これが縁(えにし)だと云いたかったのだ。

翌日、私は「『愛別離苦』はあなたのような人を待っていました」という言葉で始まる長いメールを返した。すると彼女は私の早々の返事に驚き、読んでは涙が止まらないということ伝えてくれた。それから毎日のようにメールをやりとりし、互いの苦しい気持を吐露し合った。頼りきっていた配偶者を突然に失った私たちは、嵐の海の小舟のような状態であった。いや、木ぎれに捕まって荒れた海を漂っている人間たちである。さあ、早く。あなたの木ぎれと私の木ぎれを重ねて強くし、どこかに辿り着くまで頑張りましょう。そんな心境で言葉を出して励まし合った。

彼女には8歳、5歳の男の子と1歳の女の子が居る。はたちで結婚し、すでに三人の母親である。長男は今春、小学校に入学した。三人めの子どもは未熟児で生まれた女の子で、夫婦してよく病院へ検診に連れていったのだという。旦那様は飲食店の店長をしておられ、人望の厚い人であったそうだ。夫婦は、将来、自分たちの店を持つのが夢であった。家もリフォームをするつもりで、共に働き頑張っていた。それが残酷にも打ち砕かれたのである。

私は彼女のことを、つくづく偉いと感心した。大きな悲しみを抱えながら、とても前向きなのである。人の厚意にきちんと応え、いろんな人と接している。私はHiroshiの死後二ヶ月後くらいの時、ひどく塞ぎ込んでいたからだ。誰にも会わず、話さず、家の中でじっとしていた。誰にも解るわけがない。一旦そう思えば、誰に対しても心を開こうとしなかったのだ。彼女は違った。積極的に人に会い、動いて悲しみを消化しようとしている。娘ほど若い彼女に、それでも生きなければという姿勢を学んだ。ともすれば投げ遣りな考えに陥る私は、彼女の健全な考え方に、ずいぶん教えられるところがある。彼女は逞しい女性である。

そんな彼女も時々はボロボロになった。五月には入学したばかりの長男の運動会があった。家族で楽しむはずの日に「お父さん」が居ない。六月には主役が居ない「父の日」を迎えた。七月になり、パパの誕生日がやってきた。お墓に行き、彼の好きなチーズケーキで祝ってあげた。このように、日常で当たりまえのことが出来なくなってしまったことに直面する時、愛する人を亡くした者は大きな悲しみに襲われる。居ないことが「何故?」と思えてならないのだ。そんな時、彼女は呑み潰れるほど酒を呑み、その悲しい気持ちを言葉にし、「もう寝ます」とメールをくれた。

S・Kさんとは電話でも話し、いつか会って語ろうと決めていた。強がり同士で涙をあまり流さなかったので、私たちはきっと溜め込んでいる、会ったときには思いきり泣こうねと言っていたのだ。そんな折、彼女は六月の「水無月の会」例会に参加され、思いのほか早くお会いすることができた。例会後は右近庵へ来ていただき、娘のKともども三人で朝まで悲しみを語り合った。仮眠の後、その夜には百ヶ日法要があるとのことで、昼過ぎには早々に帰っていかれた。そんな忙しい中を、大阪まで出向いてくださったことに、とても感謝したのであった。

彼女の旦那様は、これからという時に急逝された。仕事も家庭も、夫婦としての関わりも、まさにこれからであった。運命とは残酷なものである。幸せな家庭生活は、十年しか与えられなかったのだ。悲しみの深さは、どんな物差しでも計れるものではないけれど、私とHiroshiは彼女たちの三倍ほどの長さを与えられたことを思うと、若い御夫婦が不憫でならない。怒りに近い感情すら憶えてしまう。

彼女が沈んでいると私が慰め、私が沈んでいると彼女が慰めてくれる。そこには亡くした者にしか語れない言葉が並ぶ。その言葉から滲み出す比類のない悲しみが響き合う。「愛別離苦」への訪問者で、同じ立場にある数人の人からもメールをいただいたが、返事をするも以後どの人も口を閉ざした。そのお気持ちもよく解る。誰かと率直に思いのたけを語り合いたいと願っていたので、年の差はあれ、S・Kさんと巡り合えたことは私にとって救いであった。

活動的な彼女は、夫婦でよくジェットスキーを楽しんだのだそうだ。先日、仲間の人たちから誘われて、久しぶりに湖に出向いた。家族連れで賑う中、悲しみをこらえて彼女はパパのスキーに乗った。青空の下、湖面を滑る彼女は水しぶきと同じくらい沢山の涙で頬を濡らし、「パパー、頑張るからねー。見守っていてねー」と泣きながら叫んだのだという。そのメールを読んで私も泣いた。運命とは何と過酷なものなのか。頑張れS・Kさん。

彼女たちも私たちも「何をするのも一緒」という夫婦であった。それだけに、一人になって余計つらいものがある。しかし彼女は云う。これを試練と受け留めて、パパの分まで生きなければ、と。彼女には頭が下がる。私はと云えば、やがて一周忌だというのに、Hiroshiの分まで生きてやるというところまでは快復していない。とりあえず今日一日を穏やかに生きていよう。素人もの書きとしての私は、おそらく、まだ書いておきたいことが山ほどある筈だ。そう思って生きている。

盛夏である。試練の夏は真っ盛りである。

2005年7月22日 

         
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