楽しかった同窓会(その3)

十時になると日帰り組が帰り始めた。ドア付近で店を開いていた私は、帰る一人一人に挨拶をし、本を買ってもらった礼を云って見送った。先生方も「体を大事にね」と云ってくださり、帰っていかれた。

二次会の会場である幹事の部屋は、急に人口密度が低くなった。宿泊組も、風呂へ行く者やら自室へ帰る者やらが部屋を出て行き、さらに人の数が減少した。私は店じまいをし、やっと落ち着いてビールを飲み始めた。外で飲むビールは、なぜかおいしい。家で一人で飲むビールとは味が違う。雰囲気だとか人だとか、そういうものでアルコール飲料の味というのはずいぶん変わるものである。床面積が広くなった部屋で、ついに私は寝そべって完全にリラックスし、そこいらにあるビール缶に手を伸ばしては、手酌で延々と飲んでいた。

とうとう部屋にはQUDとその仲間7〜8人になった。中高時代にはあまり喋ったことのない人たちとも、今の私は人見知りをせず話せるようになっている。誰と話しても楽しく面白い。私は近頃、人によくテンネンと云われるが、彼女たちのほとんども、私と同類のように見受けられた。私も若く見られるが、彼女たちは実年令を感じさせる人はなく、みんな若い。中身もあの頃のまま少しも変わっていないと思われた。人間にはきっと原型というものがあり、それは何年たっても変わるものではないのだという認識を新たにした。おそらく私も。

幹事のQUDとSは大役をほぼ終え、いくぶんホッとしてくつろいで見えた。これといって話題を持ち出すわけではないが、誰からともなく言葉がとび出し、誰かがそれを受けて喋る。そうしてお喋りはとめどなく続いていった。夜は更けゆくが、私にとってはいつも起きている時間であって、何の支障もなく元気に“夜どおし二次会”につきあい、楽しんでいた。もしかしたら、その時間帯に強い私が一番元気であったかもしれない。

話が一段落したところで、QUDが歌を唄うと云いだした。この子はそんなことする子ではなかったがなぁと思いながら、皆とともに拍手をした。QUDは、うろ覚えの「千の風になって」を唄った。その本もCDも私は持っている。最終メンバーの中には、今年の3月に旦那様を癌で亡くした旧姓Iさんも居た。まだ半年しか経っていないというのに彼女はとても快活で、高校生の頃のままに明るい人であった。私たちは仲間だねと、ずいぶんいろんな話をした。何の悔いもなく送れたという彼女が、私はとても羨ましかった。

QUDの歌の次はSが何かの口上のようなものを披露した。かなり私は酔っていて、そのようなことを彼女がしていたなとしか覚えていない。じゃ次は私だと云われ、さて困ったな、こんなことなら詩でも持ってくればよかったと、一編でもソラで朗誦できる詩はないかと思いめぐらせたが、最後まで途切れずにやれるものが浮かばない。それではとばかり、売り物の本を一冊手にし、私は立ち上がった。立って前でやれというのだ。よし、何でもやりましょうと皆の前に立ち、私は榊リュウになってみせた。物語の終わり近くに出てくる切々たるリュウの手紙文の一部を、朗々と読んでさしあげたのだった。拍手喝采であった。

それから私は皆に一つのリクエストをした。あの懐しの名曲「学生時代」を皆で歌わないかと提案したのだ。校歌やら数曲を皆で唄ったあとのことであった。ダサ〜イと誰かが云うと思いきや、「歌おうか」と皆の口から「蔦のからま〜るチャペ〜ルで」と、すぐに流れはじめたのだ。何を隠そう、私はあの歌が大好きなのである。ペギー葉山サンがテレビでこの曲を唄っているのを聞くと、ジーンとなるのである。特に好きなのは、「秋の日の 図書館の ノートとインクの匂い♪」のところである。その部分を聞くと、母校の図書館が頭に浮かび、そこで過した懐しい日々をかならず思い出すのであった。

正直に話すと、私は大の学校嫌いであった。姉が行っているからお前もという父の判断には本人の意志も何もなく、小学6年の私の進路は自動的に決まってしまった。入学してすぐ、私は学校に馴染めないことを悟った。お嬢さん学校ではなく、進学校へ入れてもらいたかったと父を恨んだこともあった。良妻賢母を作るための学校という雰囲気に何から何まで反発した。家庭科や音楽がやたら多く、すべてにおいて“女子教育”に徹する先生たちにも反抗した。早くこの学校を出たいと思いつづけて6年間を過したのだった。

それでは、なぜ私は今頃になって母校が恋しく、昔の私であれば縁のない同窓会というものに出てきて、これほど友や先生方が心地いいのだろう。中高時代のことは封印するようにしてきた私が、なぜなのであろう。このぐらいの年令になれば、皆、同窓会、同窓会と集まり始めるが、私もそれであろうか。そんなことを考えていると、いくつか判ったことがあった。

まず、私は学校嫌いではあったが、友達嫌いではなかったということである。一匹狼を誇っていたつもりであり、本ばかり読んでいるヘンな子であったと思うのだが、6年間で私は意外に多くの友と接し、それなりにインパクトの強いコのようであった。洋楽には学年一詳しいことも知られていた。目立たぬようにと心がけていたつもりだが、それには失敗、あんなだった、こんなだったといろいろと覚えてもらっているのであった。もちろん多くはないが、濃い付き合いの友もそれなりに居たのだった。

先生方に対する反発は、きっと思春期にありがちな“お仕着せに対する抵抗”であったのだろう。女子はこうあるべきと制限されることも、特に私は厭であったのかもしれない。後年、自分も先生と呼ばれる立場になり、しかつめらしいことを云わなければならなくなって、先生方のお気持は理解できた部分も多かった。大人というものは、青少年を導かなければならない。厳しさは愛の鞭、今はとても感謝している。そういう私も生徒たちに厳しかった。かれらが可愛かったから厳しくあったのだ。

女学生と先生は、三十数年も経てば熟年とシニアであった。しかし何も変わっていない。モト花の乙女たちはキャアキャアと騒いで語り、先生方は目を細めてそれを見守る。歳月の長さを感じずタイムスリップできるのは、同窓会の良さである。それにつけてもこのような集いには出席することもないだろうと思っていた私に、こんな機会を与えてくれたQUDには感謝したい。二年前、鬱のド真ン中に居た私に32年ぶりに連絡をくれた彼女には、観音が宿っていたのだと思っている。彼女もまた、母を亡くして友に近づいたのだという。悲しいことがあると、人は旧友を求めるのかもしれない。

本を売りに来ないかという誘いに乗っての参加であった同窓会だが、売上代金よりも得たものははるかに大きかった。少女のままに可愛く頑なで、真面目で義理人情に厚くて古風、大らかで太っ腹、エネルギッシュでポジティブな彼女たち。同級生にパワーをもらった貴重な一日であった。「おもしろいから、いっぺん来てみ」というQUDの言葉通り、それは想像以上の楽しさであった。そう云えば、アイツ当日忙しくて、私の出店に来なかったぞ。後日、こんな言葉を添えて本を郵送しておいた。

「友、この佳きもの 美(うま)しもの」

届いたという知らせはない。シャイな人間同士の付き合いは、いつも言葉少なである。または皆無なのである。


2005年11月20日 

         
前の日常 次の日常

右近的 INDEXへ