“トーク”引越し顛末記

水無月になった。
ついこの間お正月を迎えたと思ったが、今年も5ヶ月が過ぎてしまった。早いものである。

ご存知のように、昨日、サイト内の「右近トーク」を終了した。すでにお知らせしたが、noteブックという日記形式の掲示板が廃止になり、ブログへ移行すると連絡があったのは、去年にいつ頃のことであったか。ともかく、まだ半年以上もあると呑気に構えていたのだが、たしか6月にはということであった。

月日が経つのは早いもので、冬が過ぎ、春も過ぎ、初夏になった。そうだ、もうすぐ6月だと、もう一度たしかめると、5月末までに切り換えるとのこと。ひと月を勘違いしていたのである。こりゃ大変だとばかり、back upを取り、次のブログ形式の色指定やデザインも決め、用意は万全、いつでも消してくれぃと準備を終えた。かくして私は、少々センチメンタルになり、5月31日、いつもの時間より早めに挨拶となる文を書き込んだのであった。

しかしである。その数時間後の明け方に、仰天の事実が判明する。念のためとniftyでたしかめると、この掲示板の利用者が多く、予定の期日までに利用者全員のブログ移行ができなかったため、終了時期を延期したというのである。な、なんということだ。私は、ついさっき、大袈裟な挨拶をしてしまったではないか。うむ。どうしたものか。書き込んだのは午前2時台である。明け方のその時までには殆どの人がまだ私の哀愁ただようラスト書き込みを読んでいなかった。下げるべきか、下げざるべきか、それが問題だ。

結局のところ“ラスト書き込み”はそのままにしておいた。迷った上で、そうした。私は小説を書き上げるまでべらべらと喋らずに専念し、完成させるのだと大見栄を切った。カウンターは2、3回転したようだが、たとえお一人でも、大見栄きった哀愁ただよう“ラスト書き込み”を読んでおられたなら、バサリと消して何も無かったように苺ができたの、ホトトギスがどうの、今日も一日お元気で、などと可笑しいではないか。噴飯ものである。それでそのままにしておいたのだった。

昨日は、いつもよりカウンターが回転した。もしやトークの過去ログを保存するのに何度も訪れてくださった方が居られたか。慌ててprint outするのに大変だった皆さんには誠に申し訳ないかぎりであるが、いつまでとは明記されていないが、とりあえず、6月1日をもって“右近トーク”が削除されてしまうことはなくなった。だがしかし、しかしである。いつまでという日付が示されていない以上、では、とばかりに能天気に喋ってもおられまい。突然にバサリと消されるかもしれないではないか。なぜならniftyには過去にバサリ、バサリも大バサリ、残酷にも我が「平成道行考」を一瞬にして消してしまった前科があるのだ。

思い出したくもないが、その頃のことをご存知ない“道行若葉マーク”の方々のために語るとしよう。あれはHiroshiが急逝して二ヶ月後の2004年10月1日のことであった。やっとの思いでサイト復活をすべく、数点の作品を用意してupをしようと意気込んだ。まだ私はボロボロであったが、そのまま書かずにいればもっとボロボロになりそうであったので、「透けてゆく人」の連載続行を決意し、それも含めて皆さんに“がんばる右近”をお届けしたくて書き始めたのであった。書けない自分を私は好まない。シロウトだが、どんな時にも書かなければと思っているのだ。

さあ、今日から復活だ、と思ってパソコンを開けると、信じがたいことが起こっていた。サイトが無いのだ。そこに私が見たものは「ページが見つかりません」の冷たい文字であった。絶叫した。なんでぇーっ!(関西弁では“で”を強める)私はどんな時も取り乱すことがない。たったひと言叫ぶというより怒鳴ったあと、ソファにドスンと寝転がってフテくされた。おのれ、niftyめ。こういうことにならないために早くに手続きを完了させたというのに。これはどういうことなのだ。

せっかく頑張ろうと思っていたのにすっかり気落ちし、本当にもうこのまま道行考を閉じてしまおうかと考えた。小一時間ほどやりきれない思いで沈んでいたが、私は案外立ち直りの早い人間である。チクショーッ!→何クソー!→負けへんぞー! の遺伝子が私には生まれついて組み込まれているようだ。怒りと失望が治まったところで、するべきことは何かと冷静に考えた。だが、当時は今よりずっとパソコンについて無知であり、何をどうしてよいやら皆目わからず困り果てた。

「助けて、俺〜」とHiroshiの写真を恨めしそうに見つめてみても、彼は何も云ってくれない。泣くに泣けないというのは、ああいう状態を云うのであろう。したがって泣かずに対策を考えた。コンテンツはもちろん保存してある。取り戻したいのは旧・右近通信とBBSであった。長く同道してくださっている皆さんはご存知だが、旧・右近通信には、無駄話から真面目な話、少々高尚な話まで雑多に入っていた。(現在の“トーク”“言葉なんて”“右近通信”のmix型か)それはそれで好評であった。

だが惜しかったのはそれらではなく別のものであった。Hiroshiの急逝後、旧・右近通信で私はそのことをいち早くお知らせし、そのあとには生涯で最大の悲しみの底にあった私の心情が、詩とも嘆きともいえる言葉でずいぶん並べられていたのであった。BBSには道行考を訪れてくださる人びとの暖い言葉がぎっしり詰まり、Hiroshiのことが一段落した頃から、それとない優しさで私を慰める言葉が寄せられていたのだ。それらが誰かのクリックひとつで吹っ飛んでしまったのであった。

すぐにniftyに掛け合い、何とかならないかと問い詰めたが、時すでに遅し。2004年10月1日をもってHiroshiのIDが解約されたことにより、保存していなかったもの、借りていたもの、minazukiukonのドメインも、ホームページそのものが一切合切、虚しく消えてしまったのであった。「水無月右近」でも「平成道行考」でも私のページは見つからない。万事休す。できるかぎりのことをしようと、相互リンク先に取り直したURLを送ったり、メールをくださったことのある訪問者の皆さんに連絡をした。サイトではその日から再スタートすると予告までしておいたのに、突然ページが消えてしまい、たいそう皆さんを驚かせたことは申し訳ないことであった。

できることはすべてやり終え、一からスタートしようと新たな気持になってからも、niftyに対する私の怒りは治まらなかった。HPはHiroshiの親IDで運営していたので、彼の没後、名義を変えておかなければ支払いその他で支障をきたす。もし何らかの理由で突然HPが閉じられてはいけないと、私は早めにniftyに連絡を取り、その旨を伝えて再契約し、支払いも私の名義に変更した。その際に私は念を押した。Hiroshi名義の契約での運営中のHPは、これで継続できますね、と。Nサンという女性は「はい」と答えたのであった。

もう一度云う。私はまったくのPC音痴であり、無条件で人の言葉を信じてしまうところがある。その答えに安心し、すべてそれでスムーズに行くと思っていたのだ。最悪の事態を避けたくて早めにとった行動が裏目に出てしまい、何ともあと味の悪いことであった。苦情を云うとNサン、「私どもは、お客様がすべて判っておられることを前提に、お話しさせていただいております」。キレかかったが抑えた。私は自分の無知を情けなく思い、怒ることができなかったのだった。(こんなもの言いをする人は、絶対“センセイ”になれないからな)

この苦い経験をさせた非情なniftyを、今でも私はまったく信用していない。したがって今回のブログへの転換も、期日を切ってバサリと消すのではないかと考えた。それであのようなお知らせとなった訳である。しかしまたniftyは予定を変更し、「右近トーク」は消されずに今日もある。皆さん、これで謎が解けましたか。

はてさて、どうしたものか。現在ブログは「言葉なんて」と、移行済みの「思い」(「愛別離苦」)の二つになった。良とRyoさんはブログという今ふうの建物に住んでいる。右近はこの古くさい右近庵のように、現在の掲示板に居られるだけ居たいが、またもや小説を夢中で書いている間にでも、突然、バサリと消されては腹が立つ。どれ、やむなく引越すとしよう。やれやれ、ドタバタのトーク引越し騒ぎであった。

2006年6月1日 

         
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