「とび」執筆中よもやま話

連載小説「とび」を予定どおり1ヶ月間で書き終えた。まずは無事に書き終えたことに満足したい。実は、舞台裏ではいろいろと苦労があった。

昨年12月10日に突如として書き始めたこの小説は、例によって例のごとく、筋書きなどまったく考えていないのにスタートした。「言葉屋」を書き終えて2、3週間という時であった。規定は50〜100枚、2007年1月15日締切りの某賞に投稿するというものである。それは一地方都市の文学賞であるが、昔から投稿してみたいと思っていたものであった。受賞するのは夢物語、投稿することそのものが夢であったのだ。この賞があるのを知った頃、私は素人もの書きではなく塾のセンセイであったので、100枚の原稿を書くなんて気の遠くなるような話だと思っていた。

「とび」の短距離レースは、いいスタートを切った。白線を踏んで滑ることも、後ろから押されたり、人ともつれて将棋倒しになることもなく、快調にトラックから街へ出た。しかし最初の関所がすぐにやって来る。夏から依頼していたガレージ拡張工事及び庭の斜面防犯工事が突然に始まったのである。あまりに遅れていたので、年明けかと思っていた矢先、いきなりの業者からの連絡である。「まいったな」と思えども、彼らにも都合があるのだろう。私が連載を始めたからとてさらなる工事の延期は好ましいことではない。「わかりました」と承諾し、すぐに工事が始まった。

私が床に就く頃に彼らはやって来て、もの凄い音を出して工事を始める。寝ている部屋の真横で土を掘っては削る大きな機械音がする。しかしながら、眠れないかもしれないというのは杞憂であった。眠ることに極めて神経質なはずの私は、ガーガー、ガチャガチャという轟音にもめげず、すぐに眠りにつくのである。朝までひたすら書き続けた疲れのせいか、耳栓をするや3匹めの羊くらいで夢の中であった。起きてから彼らにお茶を出し、夕刻にその日の作業終了の報告を受け、「ご苦労さまでした」と彼らを見送る。とびではなく庭師の彼らはガレージまでも掘る。その働く様子には、小説の登場人物に通じるものが感じとれた。

12月半ばから始まった工事は2週間ほどで終わった。工事終了と同時に水道栓の水もれを知らされ、水道局に連絡をすると、すぐに水道管を直さなければという。寒い中、もう一つの水道栓を探すのに協力し、疲れてしまった。幸い翌日の工事は大がかりではなく、無事に終了した。やれやれ。師走も押し詰まり、時すでに年末である。新聞やテレビでは歳末のあわただしさをしきりに伝え、スーパーのチラシでは正月準備一色である。Hiroshi没後は、あわただしさとは無縁で2度の年末が過ぎていたが、昨年末は動かなければと正月の買物にも行き、小掃除(造語デス)もした。ほんとうは何もせずに書いていたかったのだが、人並みのことはするべきだと考えてしまったのだ。(このジョーシキ人の殻が破れたら、さぞかし面白いモノが書けるだろうに)したがって「とび」は年賀状を書き始めた頃から年明けの3が日が過ぎるまで中断せざるをえなくなった。

明けて1月4日。提出まであと10日しかない。「できるやろか」と不安がよぎる。やるしかない。書くしかない。年末年始を世間の人と同じように過し、紅白歌合戦も見て裸の人たちが踊っているぞと驚き、焼酎や屠蘇を呑んでほろ酔い状態であった私は、ちとのんびりしすぎたと焦り始めた。うむ。やるっきゃない。書くっきゃない。それからのスパートは皆さんの知るところである。書いてはupをくり返し、何かにとり憑かれたように書き続けた。トークでの「更新しました」の回数を、後で見ると凄じい勢いである。かくして1月13日(土)、めでたく最終15話を書き上げてupした。一つの作品を書き上げた瞬間に、落涙したのは初めてのことであった。(なんでかな)

しかしまだ投稿のための見直しと、提出原稿作成が残されていた。その作業に1日とってあり、翌14日を当てていた。その夜はとにかく完成したので、深夜からジョニー・デップの「パイレーツ・オブ・カリビアン」を見ながら少しばかり焼酎を呑んだあと床に就いた。エサをくれというじいじいの声に起き上がったのは14日の正午頃だった。そのとき、信じられないことが起こった。ぐらりと部屋が傾き、立つことができない。ふたたび寝ると、天井がぐるぐると回転する。「な、なんだコレは…」と同時に「またか…」とも考えていた。そのようになったのは初めてではなかったのだ。

怒涛の更新をしていた頃から私はフラフラとし、家の中で何度か転んでいた。それは貧血のせいだと思い、レバーを食べたりサプリで鉄分を補ったりした。心肺機能も弱っており、ハァハァと情けない状態が続いていた。ひどい目まいはひと月ほど前にもあった。めまいの原因は脳か心臓かメニエールだと知っていた。何であれ今はとにかく原稿を仕上げなければならない。しかし立とうにも立てず、ひどい吐き気も伴っている。目を閉じて回転に抗い、鎮まるのを待てどなかなか治まらず、気分の悪さは最高潮になる。目を開けると回転する。私は情けなくも横を向いて丸虫のように丸まって、頭までスッポリ布団をかぶって揺れに耐えていた。

けれども揺れや吐き気は一向に治まらない。もちろん何も食べられず、座ることさえできない。「チクショー、ここまで来て出せないなんて、そんなんアリ?」と憤り、私の信条である Never give up! と自身を叱咤すれど、嵐の海で荒波に翻弄される小舟の中に居るごとく、私は吐き気と闘い続けた。かろうじて水分だけは摂れたものの、食べなければすぐに弱る私の体、何か口に入れようと、すりおろしりんごを口に入れるもすぐに戻し、ついに食べることをあきらめ、せめて座れるようにと願った。日付けは変わり、提出日である15日になっていた。頑張れと自分に言って体を起こす。めまいと吐き気でまた体を後ろへ倒す。そんなことを何度もくり返していた。

私は弱い自分を好まない。これしきのことで原稿の最終チェックとあらすじが書けない自分を好まない。しっかりしろ。もはや吐いても出るものは何もない。目まいがすれば目を閉じよ。それを抑える精神力で今を越えろ。あの時、あんなに頑張れたじゃないか。あの時とは、膠原病を発病した時のことである。授業を休まず受験生と向き合い続けた日々のことである。あれができて、これができないわけがない。私は気力をふり絞って原稿チェックをし、次に原稿用紙を取り出した。たった2枚の原稿用紙のマス目を埋めるのに、長い長い時間を要した。200字書いて横になる。それを四回くり返し、ついに指定文字数である8百字のあらすじを書き上げた。こうしてなんとか晴れて15日消印有効の賞に応募ができたのである。めでたしめでたし。

その日は動けず寝ていた。病院へ行く元気もない。翌16日、病院へ行こうと思ったが、震災追悼集に文が書きたい。詩は先に書いてあったが、文が書けていないのが気になっていた。文字を見ると吐き気がするが、なんとか書き終え、今年も詩と文を掲載することができた。満足である。17日早朝、テレビをつけて震災追悼式典に参加する。冷たい雨の中、人びとが竹筒ろうそくに火をともす。午前5時46分、黙祷。6434の尊い命よ、安らかにお眠りください。私達はあなた方のことを忘れません。

テレビ中継のあと、寝る時間であったが眠らず病院へ行くことにした。あいにく主治医の先生はお休みで、おまけに長い間待たされた末、やっと薬をもらって帰って来た。その薬のおかげで、めまいと吐き気は治まったが、胃腸がひどくやられてしまい、まだ本調子ではない。だが私は満たされている。さまざまなことが起きる状況の中で、とにもかくにも最初の目標であった「1ヶ月で100枚の小説を書いて投稿する」ということをやり遂げたからである。同道していただいた皆様の無言の応援は、何よりの力であった。この場からもお礼を申し上げたい。

書くことは愉しいけれど、思いのほか消耗する作業のようである。このたび私はそれを知った。だが、体はともかく、気骨だけはまだ健在であると自分を見直したのは思わぬ成果であった。たかが書くこと、されど書くこと、愉しきかな書くこと也。

2007年1月22日 

         
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