コピペは正しく

コピーをして貼り付ける。パソコンを使う人にはおなじみのcopy and pasteは、文でも図でも、表でも写真でも何でも写し取り、どこにでも貼り付ける機能である。この機能なしにパソコンの作業は考えられないほど我々は恩恵をこうむっている。

私もこの“コピペ”にはずいぶん世話になっている。最初に原稿を書くのは手書きであるが、Web(World Wide Web <webとはクモの巣の意>)上に掲載するための入力後、文を直すのに重宝している。読み返して文章が流れていない箇所や不要と思われる部分は削除して直せる。また、この部分はこちらの文の後に続けたほうがいいという時などはコピペの出番である。消しゴムでゴシゴシ消し、消しカスを払ってふたたび原稿用紙に書き直すよりずっと楽であるし、文字数の変化も即座に判る。ワープロソフトとは賢いもので、あれこれと手助けをしてくれる。小説などでは、ああでもないこうでもないと何度でも文章校正をしたい私には、コピペは不可欠となっている。

ものを書く時ばかりでなく、仕事、生活、趣味、学習のなかでパソコンを利用する人たちも、コピペを大いに利用していることであろう。今やコピペなくしてパソコンライフはないと冒頭でも云ったが、この便利な機能も使い方を誤ると弊害を生じることがある。その例をご紹介しよう。

先日、“クローズアップ現代”という番組を観て驚いた。ある大学の先生が、生徒の提出したレポートの中に、似通った文章があることに気がついた。照らし合わせてみると、まったく同じ文であることが判明した。コピペである。与えられた課題でレポートを作成するのに、いくつかのキーワードで検索し、使えそうな記述をWeb上で目星をつける。いくつかの文を集めてきて無断で失敬し、つなぎ合わせて一見それらしく仕上げ、さも自分で苦労して書いたレポートですとばかりに澄ました顔で提出したのであろう。それらの学生よりよほど熱心にそのことに取り組み、公開している人のものをトンビが油揚げをさらうように失敬するとは如何なものか。モノを盗めば窃盗罪になるが、これだって立派な盗みである。

番組では実験的にコピペによるレポート作成を試みた。「手塚治虫の思想」という課題である。手塚治虫、思想などのキーワード検索では数十万もヒットする。その中から選び出して部分的にコピペをし、つなぎ合わせて文字数を調整すれば出来上がる。あの偉大なる手塚治虫の思想について書こうと思えば少なくとも数日はかかると思うが、ほんの30分たらずでみごとに完成したのである。だが、ゲストの茂木健一郎氏は先生の立場からのたまう。自分の言葉で書かれた文章でなければ意味がないと。そして脳科学者の立場からこうも仰った。脳はいじめるほど喜ぶのですよと。脳の活性化をはかるには、いじめるのが一番のようだ。そのためには苦悶するほど考えねばならず、ネットサーフィンなどして探すという姑息なことをしている場合ではない。

番組は“声に出して読む”シリーズの齋藤孝氏にも取材をした。数多くの本を出している彼が、執筆の際にどのようにして情報を得て書くのかを紹介した。あいにく氏の著書を私は立ち読みでパラパラと読んだことしかなく、引用の多い本を書く人だという印象があるのみだ。(“引用”や“参考”は出典を明記すれば問題ない)齋藤氏は何冊もの本を選んで机の上に積み、トレードマークの三色ボールペンを片手に重要箇所に惜しみなく線を引き、グルグルと丸で囲みながら読み進むのである。このやり方は本を書くためでなくとも試験勉強などで皆がよくやることであり、私も同じことをする。ただし私は人様の書いた本を著しく汚すことを好まず、あとで消せるように黒鉛筆でする。

齋藤氏曰く、Webから情報を求めないのは情報の質が悪いとか浅薄であるというのではなく、関わる姿勢が浅くなるのを防ぐためだという。なるほど。有名人ともなれば過激な発言は控えて緩やかにうまく表現しておられる。このWeb上の情報であるが、私の考えは以下である。ちょっとした調べものや、日常生活で必要な情報を得る手段としてはこれほど便利なものはない。だが、学術的なことを調べるには最良の情報源だとは思えない。大学関係者が論文や研究発表の文章を掲載していることもあるようだが、何かを書くために参考となる情報は、本という形に収まって既存しているものの方が確実である。研究者達は本に著すことが目的である場合が多く、本を世に送り出すことの重大性も熟知している。誤ったことを書けば非難ゴウゴウであろうし、いったん世に送り出したら書き直しが許されず、取り返しがつかないのである。したがって吟味に吟味を重ねた“本”のほうが信頼できる情報なのである。書いて著したい人々の最終目標は、Webでの公表ではなく書物であることは、未来永劫、不変なのである。

私事ながら、私もこの春から学生に戻ってレポートを書いている。書くにあたって最初にすることは参考になる文献探しである。先生から指示されたものがあればそれを買い求めればよいが、自分で探さなければならばいことも多い。それはまた愉しみの一つでもある。クローズアップ現代を観て知るまでは、インターネットで他人がその課題について何を云っているのか探すことなど気づきもしなかった。私は病弱であるから外出がままならず、本を探すのはインターネットのWeb書店だが、どこかの誰かの文章を拝借しようなどとはゆめゆめ考えたことがない。

パソコンのコピペ機能はたしかに便利ではある。だが、この例のように悪用や濫用すると利便性どころではなく、人間の質を低下させることになりかねない。苦労せずして人の言葉で作成したレポートに何の意味があろうか。若いうちから手を抜くことを覚え、要領よくものごと済ませることに慣れてしまえば、その人の行く末が案じられる。倫理観の欠如が脹らまないかとか、傍若無人の振る舞いがいつか身を滅ぼさなければよいがと老婆心ながら心配である。教授陣の目は節穴ではない。写し取ってきた言葉で体裁よく仕上げても、一目瞭然である。大人をナメてはいけない。しかしこのようなことは企業においてもあるらしい。こういったことの対策として、Web上に同じ文章があるかどうか調べるソフトを金沢大学の先生が開発中だという。もう注文が相次いでいるらしい。ふむ。こうやって必要に迫られて新しいソフトというのは出来るのだな。アノ手にはコノ手である。

我々はさまざまな文明の利器の便利さを享受して暮らしている。だが先の学生達だけではなく、誰もが利便性ゆえに怠慢になっていく傾向にあるように思えてならない。家電ひとつをとらえても、今や昔人間になりつつある私には、そこまでしてもらわなくてもという機能がたくさん付いている。洗濯機や冷蔵庫や掃除機が家庭の主婦たちの家事を大きく軽減した輝かしい歴史があるが、現在は人間が本来するべきことまで機械にやってもらおうとしているように思う。それは果たしてよいことであろうか。“楽”をするぶん何かを失い、どこか別の所にそのシワ寄せが行くことは否定できない。ズルをした学生は、便利で速く、楽であるコピペを利用したのであろうが、気づかれて幸い、いくつかの大切なものをかれらは失うところであった。すべての文明の利器は使い方を誤ると人間を堕落させるに充分な威力を持っている。心してコピペの機能も正しく利用したいものである。

書き散らして遊び暮らしていればよいものを、私は今頃になってふたたび通信学生生活を送っている。認めたくはないが理解力や集中力は昔のようには働かない。しかしながらレポートや試験のために読む、考える、書くことは楽しい。「楽(たのしいという意味で)あれば苦あり」のとおり、苦しいこともたびたびある。けれども老骨に鞭打ちながら初志貫徹して卒業するつもりである。ものごとは苦労してやり遂げるに限る。その過程において多くのことを学び、やり遂げた達成感は格別であるからだ。

明日をになう若者たちには、コピーペーストした生き方ではなく、ぜひとも独創的な生き方を模索してほしいものである。

2008年9月5日 

         
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