俗なる幸せ
  −T.S.エリオット『カクテル・パーティー』より− (その1)

T.Sエリオットという詩人がいる。彼の祖先はイギリスから移住してアメリカに住んだ。エリオットはミズーリ州セントルイスで生まれるが、後にイギリスへ渡って詩が絶賛され、アメリカ詩人とは規定されていない。また彼は「寺院の殺人」をはじめいくつかの戯曲も書いた。そのひとつに「カクテル・パーティー」がある。「英文学研究」という科目の履修試験問題の中に、この戯曲に関する設題があった。それはこの戯曲における「俗なる幸せとは何か」というものであった。学習しながら興味深い内容に引き込まれた。では、あらすじを要約して紹介しよう。

第一幕の第一場はチェンバレン家のカクテル・パーティーから始まる。この家の主であるエドワードは、せっかくのパーティーの場で落ち着かない。妻が家を出て行ってしまったからだ。人を愛することができないエドと、溢れる愛をぶつける妻ラヴィニアの結婚生活はうまくいかなかった。倦んだ夫婦関係から、エドは若い女性シーリアと不倫関係に陥る。シーリアはラヴィニアが家を出たことをエドの解放と捉え、彼を獲得する望みが現実味を帯びてくる。だがエドは、妻を愛したことがないと言いながら、家庭を壊してまでシーリアと新たな生活をする気はない。それでは何をいったい求めているのかと彼女は訊くが、エドは答えられず、ただひとつ分かっていることは、自分が中年だということだけだと言う。エドはラヴィニアが戻っても幸福は感じないだろうが、居ないと生きていることさえも出来ないような感覚になっているのも事実だった。中年の男には、陰で何をしていようと、家庭ではそれなりの安らぎと喜びがあるからだ。

若い頃とはちがい、ある程度の年令になれば人は望むに値する欲望を失い、手が届くものにだけすがって満足しようとする。エドの人生はすでに決まっており、そこから逃げ出そうとするのは単なる見せかけに過ぎず、ただ運命を変えるふりをしてみたかっただけなのだ。シーリアとの情事は夢であったとして、妻との日常に戻ろうとするエドの大人の分別がシーリアには許せない。〈私にも思い当たるが、そんな中年男は世の中に掃いて捨てるほど居るものだ。〉人が自分の中に凡庸しかないと考えるときそれはひとつの悲劇だが、そんなエドにシーリアは失望し、幻影を自分が勝手につくったことに気づいて詫びる。

舞台にはこの他にパーティーの客である精神科医ライリー、それにジュリアとアレグザンダーの二人の女性たちが夫婦のガーディアン〈守護神〉として登場し、シーリアに想いを寄せる青年ピーターも登場する。ライリーは夫婦からそれぞれ話を聞き、互いの心情を理解し合うように仕向ける。そのために二人を真実に近づける。死んでいる愛を蘇らせようと力を貸すが、エドとシーリアだけでなく、妻のラヴィニアも青年ピーターと愛情関係にあったことをライリーは二人に明かす。

「日常性が亀裂し、愛を喪失し、魂の死を実感したとき、人の精神は地獄に堕ちる。結婚生活の退屈が精神の不在を来たし、それぞれの役割りを呪い出したとき、夜明けは永遠に来ない。しかし見方を変え、暗黒に捉えられた精神に風穴を開けるとき、癒しの神が訪れないともかぎらない」とテキストは説明する。愛の死を背負ったままの二人では、この先も身動きとれずに破綻するのは明らかだ。他人の不幸の上に幸せは築けないというエドにライリーは言う。

「あなたの仕事は良心の負い目を一掃することではなく、良心の重みにいかにして耐えるかを学ぶことですよ。あなたには他人の未来になど何の関わりもないのです」。

これを聞いたエドは夫婦が互いに演じた悪い役割りをせいぜい善用しようと妻に言い、別居をやめて仲良く家へ帰る。

一方、シーリアへの処方は異なり、ライリーは彼女に二つの道を提案する。一つは「日常生活の軌道に乗って確実に自己を維持し、過剰な期待を避ける習慣を身につけ、自他に寛容になること」であった。もう一つは信仰の道である。それを歩めば「誰も目的地を知ることのない旅、絶望から生まれる信仰の必要な旅、恐ろしい旅。しかしその道を行くものは自分の寂しさを忘れることが出来る。あの追憶と欲望をない交ぜにした虚妄の世界に棲む孤独の決定的な空爆を免れることが出来るだろう」とライリーは言う。夫婦の俗性と相対する精神性をもつ彼女はその道を選ぶ。こうしてライリーを含む三人のガーディアン達は盃を上げて亀裂の癒えた夫婦に炉端の幸せが、シーリアには迷路からも流砂からも守られた聖なる道が拓けたことを祝福する。

第三幕は二年後、同じく居間でのカクテル・パーティーを控えた夕暮れである。パーティードレスを装ったラヴィニアは夫の誉め言葉に満足する幸せな妻である。エドは妻をいたわる優しい夫であり観客は「凡庸」の道の勝利を確信する。ところが凡庸ではなく「殉教」の道を歩んだシーリアのこともパーティーで明かされる。ある島で救護団体に加わって活動中に異教徒の暴動が起こり、病人をおいて逃げるのに忍びず敵に捕まり、彼女は十字架に架けられたのだ。シーリアを一方的に愛していたピーターは、彼女に自分が関わる映画界入りを勧めるつもりで来たが、アレグザンダーの知らせに愕然とする。二年間、彼女への誠を捧げてきた彼にラヴィニアは言う。

「あなたが依存してきたのは、シーリアのイメージだったこと。自分でこしらえ上げた、自分の必要に合わせたイメージなのよ」となだめ、皆がもっとシーリアのことを知ろうとするべきだったことを悔やむ。そしてカクテル・パーティーが和やかに始められる。

西洋の文学の背景にはキリスト教が厳然として存在する。この戯曲においてもエド夫婦の「俗なる凡庸」に対するシーリアの「聖なる殉教」がある。殉教はキリスト教では最も崇高な行いとされ、彼女の「悲劇的な聖性」は、チェンバレン夫妻の「幸福な俗性」と対比を成している。彼女の気高い意志は死に絶えたわけではなく、永遠に生き続けて讃えられるべきものとなるのだ。この物語は二つの対照的な生き方を提示している。

如何であろうか。筋書きはこのようなものである。皆さんはどんな感想をもたれただろうか。原稿用紙も七枚目の半ばまで来た。「俗なる幸せ」に対する私の意見は次回に申すと致そう。

                            (つづく)


参考:T・S・エリオット研究『午後の遠景』 川野美智子著

2009年4月24日 

         
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