太宰の「佐渡」へご案内(その2)

 目の前に迫っている大陸の影はいったい何だと考えるほどに主人公は混乱した。内地では方角があべこべで、まさか朝鮮ではないし、能登半島かとも思ったとき、船室がざわめき始める。もう見えてきたという声も聞こえてくる。「私はうんざりした。あの大陸が佐渡なのだ。大きすぎる。北海道とそんなに違はんじゃないかと思った」のである。その大陸の影に佐渡があるなら、先の島は何だったのか。やはり生徒は嘘を教えたのだと考え直す。

 それにしても人を惑わす眼前のつまらぬ島は何だろう。昔からあった名もない島だと思い込む。あの大陸が佐渡なら到着まで相当な時間があるはずだと主人公は「早くから騒ぎまわって損をした」とふたたび毛布を引っかぶって船室の隅に寝る。けれども人々はむくりむくりと起き始め、身支度をして騒がしくなる。主人公はまた起き上がる。ボオイが毛布の料金を集めに来ると、主人公は「もうすぐですか」とわざと寝ぼけたような声で訊く。あと10分で着くと知り、あわてて甲板に出ると、身支度をした大勢の旅客がそこに居る。

 わけが分からないまま島の灯を見ていると、そばで赤いオオヴァを来た少女が「さっきの島は?」と隣に居る紳士に訊いている。都会人らしいその親子は初めて佐渡へ来たように見える。「佐渡ですよ」と父親は答え、主人公は少女と共にうなづく。さらに詳しく説明を聞こうと彼はその家族にすり寄る。パパもよく分からないのですがと紳士は始め、両手で島の形を作り、汽船が通った所を説明する。主人公は背伸びをして父親の手の形をのぞき込み、やっと納得する。「エ」というカタカナを逆さにしたような佐渡ヶ島の、先の方の小さい島は小さい山脈地帯、雲煙模湖の大陸は大きい山脈地帯だったのだ。それだけのことであった。ここまでが物語の前半である。

 佐渡に着いた主人公は上陸第一歩から土の踏み心地をたしかめる。北海道へ初めて渡ったとき、土の踏み心地に上陸第一歩で興奮した作者は、大陸続きであることを実感したという。だが佐渡は内地のそれと同じであり、新潟の続きであると確認する。雨の中、傘もマントも無い“地質学者”は、すでに佐渡への情熱も消え、このまま帰ってもいいと考える。そこへ宿の客引きが声をかける。

 宿の女中さんを前に食事をする主人公は、前日の高等學校生を相手にした余波で行儀よさが取れず「私はさむらひのようである」と思う。“さむらひ”は食事のあと、どてらに紺絣の羽織をひっかけて町へ出かけ、酒を飲もうと一軒の料理屋に入る。食事をしたばかりであるのに女中さんは料理をどんどん並べる。事情を話しても食べろと勧め、芸者を呼ぼうかと言う。やがて小さい女が入って来る。食べ物を無駄にするのが大嫌いな主人公は、その女性に食べなさいと勧めるが、「いただきます」と主人公の野暮を笑うばかりで箸を取らない。「すべて東京の場末の感じである」と彼は思う。なんの情緒も無いので早ばや宿へ帰り、すぐに布団に入る。

「夜半、ふと眼がさめた。ああ、佐渡だ、と思った。波の音が、どぶんどぶんと聞こえる。遠い孤島の宿に、いま寝てゐるのだといふ感じがはつきり来た」のである。彼は「死ぬほど淋しいところ」の酷烈な孤独感をやっと捕える。それは「おいしいものではなかった。やりきれないものであった。けれどもこれが欲しくて佐渡までやって来たのではないか。うんと味はへ。もっと味はへ」と自身に言い聞かせる。やがて彼は「自分の醜さを、捨てずに育てて行くより他は、無いと思った」のである。この部分の心境はよくわかる。私も嵐の日、大間崎の旅館で風と波の音を聞きながら、なんでこんな“最果て”まで来たんだろう、素人だけれど、とにかく書いていくより他は無いなぁと考えた。

 翌朝、食事を済ませて勘定を済ませるとバスに乗る。相川という所へ行こうとしていた。二時間ばかり揺られて着いた漁村は、「素知らぬ振りして生活を營んでゐる。少しも旅行者を迎へてくれない」のである。そして再び思う。「なぜ、佐渡へなど來たのだらう」。「しなかった悔ひ」を噛みたくないばかりに来たのだと結論するが、佐渡に何も無いことは分かっていたのに、来て見ないうちは気がかりなのが見物人の心理だと考える。

 彼は人生もそんなものだと言う。「見てしまった空虚、見なかった焦燥不安、それだけの連續で、三十歳四十歳五十歳と、精一ぱいあくせく暮らして、死ぬるのではなからうか」。何を仰る。貴方は早くも三十九歳でこの世とおさらばされましたゾ。もう少しゆっくりなさればよろしかったものを。しかし今、貴方はこの世でスーパースターでいらっしゃる。そのことを、ご存知か?

 彼は「佐渡をあきらめ」、翌朝の船で帰ることにする。人ひとり通らず、知らぬ振りの相川のまちは、彼に見向きもせずに自分だけの生活をしているように見える。鞄を抱えてのそのそと歩く自分をいよいよ恥ずかしく思い、できるものならすぐにも東京へ帰りたいと願う。しかし汽船が無く、もう一泊することになる。宿屋で昼食もとらずにどてらに着替え、宿を出てただ歩く。海岸へ行くも何の感慨も無い。山へ登り、金山の一部を見るが小規模だと感じ、さらに山路を歩いて立ち止まって日本海を見た。寒くなってきたので急いで下山し、まちを歩いて土産物をしこたま買う。それでも気持ちは少しもはずまない。
 
 だが、彼は思う。「これでよいのかも知れぬ。私はたうとう佐渡を見てしまったのだ」と。そして翌朝は五時に起きて朝食の膳に向かう。おしんこだけで御飯を食べ、あとの品には手をつけずにいると、茶碗蒸しを食べていきなさいと女中さんに言われて器の蓋をとる。外はまだ暗く、宿屋の前に立ってバスを待った。目の前を、ぞろぞろと黒い毛布を着た老若男女の列が通る。鉱山の人たちが、せっせと彼の前を歩いて行くのであった。

 
『佐渡』は昭和16年に『公論』の1月号に掲載された。太宰32歳の作である。したがって、佐渡の様子は現在とまったく異なるもので、あまりに淋しい、何も無いとアピールするのは佐渡の皆様に申し訳ないことである。しかしこの短編は名作で、短さのなかに光る言葉や文章が散りばめられている。主人公の心理も手に取るようにわかって面白い。太宰の小説のほとんどが自身の体験を基にしたものだが、これも実際に佐渡へ旅したことを書いたと思われる。

 彼は馬鹿にされたり作品をけなされたりするのを極力怖れて嫌った。誰もされたくはないが、そうされると子どものように「てんてこ舞ひ」し、「へどもど」し、激怒するのである。馬鹿にされたと思うと、相手がどんな大御所の作家であろうと臆せず論戦での決闘を挑んだりする。前半では、そんな彼の一面がうかがえて面白い。また後半では淋しがり屋の太宰が旅先でしんみりと孤独感を味わう様子が読者の共感を呼ぶ。佐渡でなくとも見知らぬ土地で孤独感を味わうことは誰にもある。けれども人間たまには孤独になり、ふだんは考えないことを考え、人生を見つめるのはよいことなのである。

 ところで作品が書かれた昭和16年には、改正治安維持法公布、日ソ中立条約調印、インドシナに進駐、東条内閣成立、マレー半島・真珠湾奇襲、そして米英への宣戦布告があり、大東亜戦争が火ぶたを切る。同年12月、言論出版集会結社等臨時取締法発布もある。書き手は自由な発言を封じられ、多くの作家達が戦意高揚の文を書く中、太宰は独自の世界を書き続けた。そして終戦後、一夜にして人々が豹変したことを彼は批判する。戦時下におどけたことや戦争と無関係のことを書いていたことは、彼なりの抵抗であったのかもしれない。愉しき哉、太宰の中短編。文庫本も揃っている故、是非ともご一読あれ。


2009年9月18日 

         
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