“孤独死”雑考

身の周りで同世代の人が亡くなったことをときどき耳にする。有名人では先般急逝した元中川大臣の状況がHiroshiと似ているあまり、その日は五年前に引き戻された。しかし、ひとりで逝っても翌日に発見される場合は孤独死とは呼ばないようである。

では孤独死とは何であるか。読んだままに孤独に死することであるのか。それでは孤独に死するとは何であるか。死ぬ時に誰もそばに居ないことかと思えばそうではないらしい。おおかたの人々は死ぬ時はひとりで死ぬのであるが、ひとりで死んでも孤独死と呼ばれない場合と、孤独死と即決される場合がある。その違いは何か。どうやら世間で用いられている“孤独死”という言葉は、誰にも看取られずひっそり息を引き取ったあと、そのまましばらくの間、誰にも気づかれなかった人のことを指すようである。

だが、まだ問題は解決していない。ひとりで亡くなり、時間が経過して発見された人たちにも孤独死と呼ばれる人と、そうでない人に分かれる。30代の女性タレント飯島愛さんがマンションでひとり亡くなり、何日かあとに発見されたケースでは孤独死と書かれなかった。私もちょっとファンであったジャガーズのボーカル岡本信さんは五十代だが、彼が入浴中に亡くなって発見された時にも孤独死とは書かれなかった。一方、有名無名を問わず、あきらかに老齢と思われる年令に達した人がひっそり亡くなり、しばらく発見されなかった場合は即“孤独死”のようである。先頃の大女優であった大原麗子さんの死に対してはこの言葉が用いられた。これではまったく年令差別ではないか。いったい何歳が孤独死とそうでない死との境目なのか。

突っかかるのはこれくらいにしておこう。要するに、ある程度の歳月を生きてきた人が、寂しく哀愁に満ちたと傍目からは見える人生の(人にどう見えるかは感知せずともよいのだが)終末期を送り、人知れず息を引き取る。その亡骸(なきがら)が腐敗の進んでいる頃に発見されたケースを世間では“孤独死”と呼ぶらしい。それらの人を哀れみ、さげすむほど情けをかけて話題にし、自分はそうなりたくないと人は怖れるのである。それは誰かに看取られて死ぬ方が、数倍も幸せで、格が上の死であるという固定観念からであろうか。

その昔、ドラマや映画では家族に囲まれ、意識を最後まで失わず、悲しみを一身に受けて死んでいくのが常であった。それが人々の理想であろうか。臨終の間際まで死にゆく重病人は忙しかった。遺言をつぶやかなければならないし、それまでの人生での感謝も言葉に出して礼を言わなければならなかった。そのあと台詞が終わるとやおらコトンと首を傾け、死を迎えるのである。さっきまでしっかりしていてコトンと逝くのは嘘っぽいと気づいたのか、いつしかそのパターンは激減し、代わりに眠るように静かに死ぬのが定番になってきた。余談であったが架空の世界での死に方は少しだけ進歩したようである。

つくりごとの世界での話はさておき、現実に話を戻そう。人はなぜ、孤独死を怖れるのであろう。それが今日の主題である。いわゆる孤独死を、すべて不幸とみる風潮は如何なものかと私は考えるのである。このことを熟考するに、まず孤独が哀れであるという偏見が根本にあるのだと気づく。ひとりで暮らすことを余儀なくされた人はたしかに多く、それを不幸だとみずから嘆く人も少なくないのは事実である。だが一方で、好きでひとり暮らしをしている人も多く居るのである。娘や息子が同居を説得しても頑としてきかない高齢者の皆さんは多いと聞く。尋ねてみたことはないけれど、それらの人びとは“そのとき”がやってきて、“そういう状態”になるかもしれないことを百も承知のうえでひとり暮らしを選んでいるのではないか。まだ老年には至らないが少なくとも私はそうである。その覚悟の上にふだんの勝手気ままで自由な暮しが成り立っているのである。

ぜんたい人はなぜ孤独を毛嫌いするのであろう。まるで死神か悪魔のように孤独は忌み嫌われる。それは何故か。孤独大好き人間の私は孤独ほど心地いいものはないと思っている。子どもの頃よりひとりが好きで、誰かと居るとしんどさを感じた。それから現在まで私は孤独を愛しつづけてきた。今ここで孤独の素晴らしさを語り始めれば横道にそれて戻れなくなるので割愛するが、誰にも気を使わず、好きに考えたり見たり読んだり、聴いたり観たり書いたりし、動いたり学んだり経を読んだりすることは楽しく、最も落ち着くのである。

多かれ少なかれ誰もそうであろうが、私は誰かと居ると、たとえ家族であろうと素の自分になれずに疲れるのである。早くみな部屋に入ってくれればいいのにといつも願ったものである。よって今の暮らしはすこぶる私に向いている。ちなみに猫はそばに居ても一向にかまわない。かれらは人間みたいに余計なことを言わないので何時間でも一緒に居られる。傷つくこともつけられることもなく、無理に楽しげに話しかけたり、興味もないことに耳を傾けて相槌を打つ必要もない。よって私は、もの心ついた頃から猫を溺愛し、勝手気まま同士で共存してきたのである。

猫であやうく本線から外れてしまうところであった。つまり世の中には好まずして孤独に暮らす人と、好んで孤独に暮らす人が居るという続きである。後者について述べると、人間それぞれ好みがあり、大勢でワイワイやるのが好きな人も、そうでない人も居り、ワイワイやりたいのにやれない性格の人も居る。このワイワイだが、世間では家族だの友人だの飲み仲間だのとワイワイやれるのが幸せだと思い込んでいる風潮があるようだが、とんでもないことである。ワイワイほどくたびれるものはない。したがって私は極力ワイワイを短時間で済ませたり、すり抜けて生きてきた。

皆でワイワイもよかろうが、人間いつかは静かに死ぬのである。その死には、周りに人が居ようと居まいと、たいていの場合は自分ひとりで立ち向かわなければならないのである。ひとりで暮らす人は何かが起こったときに誰かを呼べない状況があるかもしれず、そのことによって死に至る可能性も充分にある。しかし、それが何であろうか。何かが起きたとき、誰かがそばに居ることにより救命できたなら運がよかったと喜べばよい。しかし逆の場合、誰も居なかったから死に、死後何日か経ってしまったことが、かならずしも不幸なことだと私は思わないのである。少なくとも孤独を愛してその暮らしを選んだ者は、そんなことは承知のうえで、ひとりを享楽しているのではないか。そうなったらなったときのこと、それはきっと寿命だと思っているにちがいない。

浄土真宗の親鸞は「往生即成仏」を唱えたが、これは即をイコールと理解するのではない。厳密にいえば往生するとすぐに成仏するという意味で、「往生即時成仏」ということである。この考え方は命がなくなれば即その身から抜け出し、その人は骸(むくろ)には居ないというものである。したがって事故でひどく遺体が破損されていようと、「孤独死」で腐敗が進んでいようと、その人は死の瞬間に成仏して苦しみのない世界に行って仏になり、すでに肉体は抜け殻でしかないのだ。仏教の考えはこのように、生き死にを考えるとき、ずいぶん人を楽にしてくれる。

好むと好まないにかかわらず、昨今ではひとりで暮らす熟年から老年の人々がふえてきた。ひとりで住もうが家族と住もうが自分の死に様は誰にも見えていない。然るに「孤独死」と呼ばれるような最期を迎えた人の亡骸の現状を勝手に頭で想像し、生きている者が大げさに感情移入をして騒ぎ立てるのはいかがなものであろうか。それが不幸だ痛ましいだのと決めてかかったところで、死とほぼ同時に成仏したご本人はいっこうに頓着していない。烏合の衆は余計なことを考えず、無駄な同情はなさらずともよかろう。

詩人の石垣りん氏、茨木のり子氏もひとりで亡くなっていた。ひとり暮らしを謳歌したことで有名な永井荷風などは胃潰瘍をわずらい、血を吐いて死んでいた。ひとりをこよなく愛して暮らした文人は多く、孤独に死ぬことなんぞ少しも怖れていないのである。生きて在る間、孤独に自己と対峙することが闘いであり歓びであるからだ。それが最上の生き方で、極上の味がする贅沢なものだとかれらは心得ていたのである。これはシロウトもの書きとて愉しまない手はない。とうに覚悟はできている。矢でも鉄砲でも持って来い。嗚呼、愉しき哉、わが孤独、わが人生。

2009年10月18日 

         
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