『自分のことを“自分”ということ』
 
ここ数年前から耳障りな言葉がある。それは自分のことを“自分”という言い方である。若い人たちが主に使っているようだが、この使い方は正しいと言えない。間違いだとハッキリ書いてある辞書もある。しかし残念なことに、若い世代を中心に流布しはじめている。これも若者の流行語なのであろうか。

「自分」と名乗ることについて、まず思い浮べるのは兵隊である。悲惨な戦争に命を捧げることを余儀なくさせられた人々や、からくも生き残った人々は、戦争という異常事態に、軍隊という特殊な場で、みずからをそう名乗ることを義務づけられていた。次に思い起こすのは文人たちである。明治・大正・昭和の近代文学作家たちは、作中で「自分」をよく用いた。その時代にその言い方が自然であったのかどうか私は知らない。同時に「私」も目にするので、何らかの意図をもって使い分けていた作家たちも居たのは確かであろう。

時代変わって現代に目を向けると、「自分」を名乗る人々には自衛官がいる。国の安全を守ったり、災害時の救出や復旧の役割りを担う彼らが軍隊用語を踏襲し、そう名乗ることに違和感は自他共に感じないであろう。それでは他にどんな人たちがいるのか。私の大好きな国技の担い手である力士たちがいる。手柄を立てて勝ったとき、インタビュールームで受け答えをする力士たちは皆、自分のことを「自分」と言い、自分の相撲をとりたいと力強く言う。自衛官にしろ力士にしろ、少しも不自然さを感じない。内容は違えど厳しい訓練や規律の世界に生きている人々が「自分」と名乗ることには重みがあり、自然に耳に入ってくる。

一方、現代の若者が「自分」と名乗ることは如何であろうか。今や中学生も口にしているのを聞く。そうなると今に小学生も、ということになる。いや、すでに・・。そのことに危惧を感じて私はこの文を書くことにしたのであるが、はっきり申し上げておこう。それは確実に間違いで、正しい表現ではないのである。私は言葉を愛する者として言葉の乱れが常に気になっているのだが、乱れが人称代名詞にまで及んできたことを大いに危惧するものである。まず、以下に「自分」の使い方の例を挙げて考えてみよう。

@一般的なことをさす従来型

「自分のことは、なるべく自分でしましょう」
「自分がされて嫌なことは、人にもしないでおきましょう」

A従来型にも“新・一人称”型にもなる中間型

「自分の力を出し切ることができました」
「自分にはとうてい無理だと思っていました」

B感心できない“新・一人称”型

「自分は毎日がんばってきたので自信がありました」
「自分、何やっても最近うまくいかないんすよね」

@は小学生のとき、学校でよく先生が仰った言葉である。説明不要の正しい使い方である。Aは読み手によって従来型ともとれるし、今ふうの言い方ともとれるが、好意的に見れば違和感はとくに無い。Bになると急にくだけた文に変化する。 Bの文は二文とも主語として用いられ、「私」や「僕」に相当する語として「自分」が使われている。しかし自分のことを「自分」というのは実にくだけた表現なので、正式の場では用いるべきではない。硬い響きゆえ正式な言葉だと勘違いをしている若い人たちがいるかもしれないが、たった今、そうではないことを知って欲しい。むしろ軽い言葉に属するので、以後、目上の人に話すときや公式の場では決して使わないよう心がけるべきである。それに今は軍国主義の時代ではないのだし。

そんなこと言ったって、スポーツ選手だってみんな使ってるじゃない。あれは? 如何にも。野球選手、サッカー選手、そしてこの冬、バンクーバーオリンピックや世界選手権で大活躍したスケート選手の面々も、口をそろえて自分、自分と仰っているのを何度も聞いた。聞きながら「あれあれ」と思っていた。もし影響力のあるかれらが「私」や「僕」と公の場で言ってくれたなら、皆が真似るであろうにと残念だ。だが、待たれぃ。スポーツ選手にも自身のことをきっちりと正しく名乗れる人は居るのである。

プロハンドボールの宮崎大輔選手は2009年4月、スペインリーグ一部のアルコベンダスのプロテストに合格した。そのときに喜びのインタビューで彼はこう言った。

「アルコベンダスに入団するのはのかねてからの夢でした」

輝く表情で、彼は堂々と「私」と言いきった。さすがである。彼のことは説明するまでも無いであろう。鍛えぬいた肉体で活躍、ハンドボールがメジャーなスポーツとなるのを願ってさまざまな活動をし、テレビに積極的に出演もした。彼の姿を見るたびに、爽やかな風に吹かれたような気持ちになったものだ。やはり彼は言葉も正しく使える人間としても素晴らしい青年であったのだ。

トリノの金メダリストの荒川静香さんも美しく、正しい言葉を話す。彼女の解説は明解で的を射ている。八木沼さん同様に、テレビを見ている私たち知識のない者にもわかるように的確に、しかも素早く、きれいな言葉で説明してくれる。そういえば、現役時代からインタビューでの受け答えは秀逸だった。間違っても「そうですねぇ」など生意気な前置きを連発して時間稼ぎをしたり、自分のことを「自分」などと呼んではいなかった。スポーツ選手の方々も、宮崎選手や荒川静香さんを見習い、言葉もいま少し学んで欲しいと思うのは欲張り過ぎであろうか。一流選手には尚更そう願う。高橋大輔、浅田真央両選手の力は世界中が認めるところである。自分のことを「自分」と言わず、「私」あるいは「僕」としっかりと言えたなら、もっと魅力が倍増し、世の中の間違った意識も改善されるであろうと思うのである。

自分のことを「自分」と名乗ることが若者に広まりつつある現象は、昨今の曖昧語といえる妙な言葉や表現の浸透と無関係ではあるまい。自分自身を「私」、「僕」と言い切れないのは自信のなさと存在の希薄さだと私は考える。(言葉をぼかすのが人間関係を円滑にする場合もたしかにあるが、私などはこの新・曖昧語に出遭うと虫唾が走る。)「責任者は誰だ」に対して「自分です」とボソリと答えるよりも、「私です」と一歩前へ進み出て申し出る方が潔くカッコいい。言い切ることのカッコよさ。それが出来る人が減りつつある今、そんな人の存在感は際立つであろう。自分のことをまるで人ごとのように名乗るこの風潮も、若者の流行語なのか。もちろん私たちの若い頃にも流行語はあった。言葉は時代と共に生まれ、あるものは生き残り、あるものは淘汰されて消えていく。流行語が生まれて言葉は活性化するものだということを私も否定はしない。流行語大いに結構だと思っている方の人間である。

思ってはいるのだが、こうも考える。流行語で崩して遊ぶのは結構だ。だが、使い分けが出来なければ恥をかくのは自身である。言葉は語る場や対象を心得て使い分けなければならない。かつてそれが出来る人は多かったが、今は言葉に限らず何がよくて何がいけないか基本的なことがわからないという人がふえている。公共の電波に乗ってテレビに映っていた30代の男性は、マイクを向けられてこう言った。「自分、小学校の教師なんすよ」。こんな先生に決して子どもたちを教えて欲しくなない。言葉は、その人を表すとも言われてきた。話し言葉とて侮るべからず。大切にし、恥をかかないようにしたいものである。

自分のことを「自分」と名乗るこの現象について考えるとき、もうひとつのことが思い浮かぶ。太宰であり、多喜二である。太宰治は『人間失格』ほかで、また近年ブレイクしている『蟹工船』の小林多喜二もその作品で主人公に「自分」と言わせている。太宰人気は今に始まったことではない。不況の昨今、若者を中心に読み直されている多喜二の人気も急上昇とやら。それらデカダン派、社会派の文学の影響があるのなら、それはそれで嬉しいことだと私はほくそ笑んだりもしているのではあるが。

さてもさても、毎度、小うるさいことばかりボヤく右近である。しかし、こういう者も居なければなるまい。久方ぶりに右近節が炸裂した。暮れよりの大不調に、どうなることやらと日々を過していたが、春場所も見に行けた。卒業証書も受取った。(相撲見物の日が卒業式で欠席したけれど。)裏庭では2007年2月に植えたソメイヨシノもこの春はじめて花を咲かせ、花冷えにも負けず楚々として咲きはじめた。まもなく新年度。そろそろ始動か。元気になりつつある右近である。どうぞ皆様ご安心あれ。

2010年3月31日 

         
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