愛より強い誇り(荷風と八重次の別れ)

 一筆申残しまゐらせ候。私事こちらへかたづき候事、よくにも見えにもあらず。ただ捨てがたき恋のれきしがいとほしさに候。もとよりなれぬ手業、お針もおぼつかなく水仕の事は言ふまでもなく候。さぞお気に入らぬ事だらけと、御きのどくに存じ上げ候も、私はそのくらゐの事くんで下さる御方と、日々うれしくつとめ居り候処、あなた様にはまるで私を二足三文にふみくだし、どこかのかぼちや娘か大根女郎でもひろつて来たやうに、御飯さへたべさせておけばよい。夜の事は売色にかぎる。夫がいやなら三年でも四年でもがまんしてゐるがよい。夫は勝手だ。女房は下女と同じでよい。「どれい」である。外へ出たがるはぜいたくだとあたまつから仰せなされ候。なるほどそれも御もつとも。世のつねの夫婦ならばさうなくてはならぬ処、さなきだに女はつけ上がりたがる者。夫としてはつね日頃そのくらゐに女房をおしつけておかなければならぬ事、私とてもよく存居り候。私は殊にあなたがそれほどになさらずとも、来る時すでに心にちかひし事もあり、決して御心配かけるほどぜいたくや見えをしたがる者にてはなく候。そんな事わからぬあなたともおもはれず、つまりきらはれたがうんのつき、見下されて長居は却って御邪魔。此意味、向嶋の老人に咄し候ても通ぜず、よんどころなく候。此手紙父に御見せ下されて、あなた様の御気のすむやうどうとも御はからひ下され度候。右申し残し候。あらあらかしく。

  二月十日夜八時半
                     八重より
   旦那様 御許


この手紙を書いたのは藤蔭静枝、日本舞踊、藤蔭流の創始者である。古書店で見つけて買っておいた「手紙歳時記」(TBSブリタニカ 佐佐木幸綱著)の「二月」のところに載せられた手紙文を引用した。著者の佐佐木氏が中学生頃から彼女の舞いを見る機会があったのは、祖父である佐佐木信綱氏主宰の歌誌「心の花」に彼女も所属していたからだということである。以下、本文より藤蔭静枝と「旦那様」であった永井荷風との別れについて要約する。

藤蔭静枝は明治十三年に新潟に生まれ、本名を内田ヤイという。日舞の市川粂八にあこがれて上京し、その後、二代目藤間勘右衛門の弟子となり本格的な修行を始める。勘右衛門は山県有朋の愛顧を受けており、山県は鴎外や信綱らと出席した歌会「常盤会」の主宰者であった。静枝も影響されて短歌に興味をもったのだろうと佐佐木氏は推測する。静枝は三十歳で巴屋八重次の名で新橋から芸妓に出るが、短歌のほか漢詩も勉強している教養人であった。その彼女と、洋行帰りの慶応大学教授永井荷風とが知り合う。芸妓に出てまもなくのことであった。

この時期の荷風は自著の発禁という憂き目に会ったり、大逆事件に象徴される圧力状況下にあって不本意な状態にあり、帰国後の孤独の中で花柳界に親しむ。近代文学者として生きることの困難さを感じ取っている時であった。大正元年、父に斎藤ヨネという女性と見合い結婚をさせられるが、八重次と会いつづける。翌二年に父が急死するやヨネと離別、同三年に八重次を入籍する。

荷風の父は手固い生活を送った高級サラリーマンであった。早い時期に渡米の経験があり、エリート・コースを歩んだ人である。荷風の米国留学を計画したのも、フランスのリヨン銀行に入れたのも父であった。父親は荷風をエリート文化人に仕立て上げたかったようだ。

永井家の雰囲気は父の考えを反映して家柄を重んじ、健全を旨とするものであり、花柳界の女性を長男の嫁に迎えることに家族は反対をする。八重次入籍をめぐって弟や親類とうまくゆかなくなるが、そのような犠牲をはらっての結婚生活であった。その生活に荷風は充実を感じていたようだ。「八重家に来りてよりわれはこの世の清福限無き身とはなりにけり」と書き残している。また後日、八重次と離別してから多くの女性と関係を持つが、二度と妻を持つことはなかった。

八重次が家出をした理由は荷風の浮気である。荷風は結婚生活に不満はなく幸せを感じていたが、八重次はじっと我慢をし、こらえていたのであった。その堪忍袋の緒が切れて、意を決し、この手紙を書いて家出を実行したのである。佐佐木氏は云う。彼女は芯の強い、行動力のある、自尊心の強い女性であった。そんな八重次を荷風は甘く見ていたのだと。二月二十四日という寒い季節の午後八時半、八重次は憤懣を吐き出し、手紙を書いた。今夜こそ家を出ようと決意した彼女は、一気にこの手紙を書いたのだ。

「つまりきらはれたがうんのつき、見下されて長居は却って御邪魔。」

著者はこの「つまり」を、感情が吹き出し、収拾がつかなくなった彼女の心情が如実に表われていると書いている。切ない決心を思わせるとも書いている。それは男がする解釈であろうか、私はそうは思わない。自分の側には落度はないが、要するに貴方が私を嫌ったのですから(しかし嫌われたとは思っていない)、これまでといたしましょうと凛として意思表示をしている部分である。荷風があまりに恋心をほかへ向けることが許せないということを、きっぱりと表現しているのである。なるほど自尊心の強い女性である。妻と色町の女性、家庭と遊びを分け、その両方を荷風が求めることを、当時としても許さなかったのである。


 一筆、申し入れ候。さてさてこの度は思ひもかけぬ事にて、何度も只一朝にして水の泡と相成り申し候。一時の短慮二人が身にとり一生の不幸と相成り候。今更未練がましきことは友達の手前一家の手前浮世の義理の是非もなし。ただ涙を呑むより外致し方御座無く候。(中略)
 扨、私はそなた去りたる後は今更母方へも戻りにくく候間、これより先一生は男の一人世帯張り通すより外致し方なく、朝夕の不自由今は只途方に暮れ居り候。お前さまは定めし舞扇一本にて再びはればれしく世に出る御覚悟と存じ候。かげながら御成功の程神かけていのり居り候。
 かへすがへすこの度の事残念至極にて、お互に一生の大災難とあきらめるより詮方なく、私の胸の中もとくとお咄し致し度存じ候へども、一度友達を仲に入れ候上は表立って如何とも致しがたく、いづれここの処しばらく月日をへだて候はば、再びお目にかかり、しみじみお咄し致す折もあるべきかと、それのみ楽しみに致し候。このことそなたもよくよくお考へ下され度、先は未練らしく一筆申し残し候。

  二月二十四日夜半
                     壮吉より
   お八重どの


荷風(本名 壮吉)は謝って引き止めることはしなかった。二週間後、男らしい冷静な手紙を八重次に送っている。三十代半ばの大人である。荷風もまた誇り高い男であった。めそめそもせず、もう帰らなくてよいと云うのである。(私には、いくぶん未練が現れていると文面から読みとれるのであるが)かくして二人はそれぞれ文学、舞踊の世界に生き、生涯を独身で過すのである。

著者はこうしめくくる。「自尊心の強い者同士の男女が、自身の意地を賭け合ってしまったのだ。愛よりも強い、人間としての誇りがある。」

さて平成に生きる皆さんは、二通の手紙から如何なる感想を持たれるだろうか。私の感想は、男とはいつの時代も勝手なもの、女を馬鹿にしてはいけないというものである。おやおや、平成の世では「目には目を」もあり、立場が逆の場合もあるとな? はてさて困ったことである。ともあれ、「貞節」の観念も男女平等であるべきだというふうに、ここは締めくくっておくとしようか。

2005年12月23日 

         
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