坂東眞砂子氏への反論 その2

それでは日本経済新聞の“プロムナード”に掲載された坂東眞砂子氏の文を、徹底的に分析してみよう。

―― こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
 家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生まれ落ちるや、そこに放り投げるのである。タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がごろごろしている。子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境には被害は及ぼさない。自然に還るだけだ。――


最初の疑問は、『どんなに糾弾されるかわかっている』、『鬼畜と罵倒される』ことを覚悟の上で、なぜ今、氏はこの事実を告白して公表したのか。そこには何らかの意図があったのであろうか。それとも奇をてらってのことか、はたまた連載の話題に事欠いてのことなのであったのかと疑いさえしてしまう。

家の隣の崖の下にある空地めがけ、生まれたばかりの子猫を放り投げる坂東氏は、作家でありながら、大きな誤解を生む文章を綴っている。草ぼうぼうの空地や山林に、ごろごろしている野良犬や野良猫の死骸は、あたかも現地の人びとが、氏と同じような方法で生き物を放り投げて殺めているかのごとく思わせる。

タヒチ観光局は、この件について回答をしている。

『日経新聞18日夕刊に出た記事に関しまして、その内容はあくまで著述者の主観であり、タヒチに暮らす一般の人々の考えや生活、環境について述べられたものとは全く異なるものと理解しています。
このような表現によって、記事を読まれた方々が不快な印象を受けたであろうこと、またタヒチという国、あるいはそこに住む人々が著述者と同様の考えを持っているかのように捉えられたかもしれない事は大変残念に思います。
タヒチで動物虐待が日常的に行われているという事実はなく、また人の手によって意図的に殺された動物の死骸を目にしたという話も聞いた事はございません。』

―― 子猫殺しを犯すに至ったのは、色々と考えた結果だ。
 私は猫を三匹飼っている。みんな雌だ。雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。タヒチでは、野良猫はわんさかいる。これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらてくれるところなんかない。避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を生むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。――


氏は猫のことを全く知らないと判るのが、この部分である。去勢をしていない雄猫は、飼われていても盛りがつくと飼い主も家も捨て、雌を求めて旅立つ。その期間が終われば、何日も経って運よく戻って来るものも稀に居るが、殆どは二度と戻って来ない。私の実家では雄ばかりを飼っていたが、二年と家に居ついた猫はない。雄たちは子孫を遺すことに真剣であり、エサの心配のいらない飼い猫という身分をアッサリ捨て、子孫繁栄を使命とし、ネコ族を絶やすまいと苦労を承知でイバラの道を歩むのだ。

もちろん雌も盛りがつく。これも子孫を遺すための本能からである。猫に限らず、すべての動物は雌雄ともに子孫を遺すことに懸命である。盛りがつくと交わり、その結果として子孫が繁栄するのだ。しかしそれでは飼い主は困り、野良猫もふえて困る。したがって避妊手術を飼い主たちは考え、野良猫を捕えては手術を施す活動をしている殊勝な人たちも居る。ところが、氏は三匹の雌猫に手術をしない。その理由は次であるという。

『獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。』

勘違いも甚だしい。雌の「生」とは「セックス」をして「子供を産む」ことのみではない。最も重要なことは産み育て、子孫を遺すことである。すべての動物たちがそうであるように、猫も性交そのものを目的として交わるのではない。強い匂いを出し、激しい声で鳴いて雄を呼ぶのは、ひたすら種の保存のためなのだ。その様子を、快楽を求めて「セックス」することも多い人間の場合と重ねて妙な感傷を挟むのは間違っている。猫に「セックス」だけをさせてやりたいというのは明らかに思い違いである。

また、雌猫の「本質的な生」とは、交尾をして子を産むことだと氏は言うが、産み育ててネコ族を絶やすまいとするのが「生」であろう。雄は方々に精子を蒔き続け、雌は産み育て続けるのが「本質的な生」なのである。「生」ではなく、本質的な「性」を重視するというのは、雌猫に御自身の感情を投影してのことであろうか。猫と人間は違うのだ。雌猫にとって、やっと産んだ子を取り上げられ、放り投げられて殺されることほど残酷きわまりなく非情な仕打ちは無い。張った乳は誰が呑むのだ。子供を取り上げられても猫は悲しみの感情を持たず、忘却も早い。しかし、目の前に産んだ子供がいれば、自らを省りみず必死で子育てをする。氏はその様子を見たことがあるのだろうか。氏の行為こそ人間の傲慢そのものである。

                             (つづく)

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2006年8月27日 

         
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