坂東眞砂子氏への反論 その3

―― 猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している、猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。生きるための手段だ。もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない。子を産みたいというだろう。
 飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。――


氏はよほど猫のことをご存知ないのか的外れのことばかり言っている。飼い猫が飼い主に甘える最大の理由は、餌がもらえるからではない。飼い猫にとって餌は与えられるのが当たりまえのことで、人間が食事をするのと同じく日常の一部に過ぎない。野良猫は餌を求めて日々を生きなければならないが、飼い猫たちは与えられて当然の食事に、さして有難みは感じていると見受けられない。かれらは飼われて餌をもらうことが「生きるための手段」だとはゆめゆめ考えず、飼い猫ライフをそれぞれにインジョイしている。かれらは決して食べるためだけに人間のそばにいるのではなく、人生ならぬ猫生を大いに謳歌している。

その姿が本来の姿ではなく無理に捻じ曲げられて可哀そうだと考えるのも、勝手に人間の思うことである。猫はどんな時も、どんな所でも楽しみを見つけるのがとても上手な動物なのだ。飼い猫の辛さがあるとするならば、一日中ひとりで置いておかれたり、遊んでもらえず運動もさせてもらえない不幸な場合であって(そういう飼い主は本当の猫好きではない)、それ以外の飼い猫たちは皆それなりに幸せを感じているはずである。

飼い犬や飼い猫は飼い主を慕って頼る。犬の場合は飼い主を御主人様と捉えて忠実だが、自分本位の猫は飼い主を同等の友、あるいは自分の方が偉いと思っている。往々にして猫好きというのは飼い猫を溺愛し、正真正銘の猫可愛がりをするので、猫は自分たちの方が位は上だと思い込む。かれらは気位が高いが、甘えん坊の淋しがり屋でもある。甘えたい時だけ甘え、淋しい時だけすり寄っては膝で眠ったり布団の中へ入ってくる。それがまた飼い主をこよなく喜ばせるのだ。

一方で私の飼っている去勢をした雄猫などは、楽しいことがあると外へ行って2〜3日も帰って来ず、飼い主の私ををひどく心配させる。やっと帰って来ると私は喜々とし、冒険をしてきたばかりのカレは、なんだか凛々しく私を見下して「飯だ」と威張っている。野生を満たして満足げである。甘え上手で自分勝手な猫たちは、その魅力で人間を虜にし、手玉に取ってしまうのだ。飼い猫に操られているのは、実は飼い主の人間の方である。犬や猫と人間はgive&takeで共存共棲をし、今後も共存共栄していくであろう。ホラ、猫の話となると私はこんなふうに夢中になって横道にそれてしまう。話を元に戻そう。坂東氏の件である。

『飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。しかし、それは飼い主の都合でもある。』

その通りである。飼い主は人間社会で暮しており、その中で動物を飼うのにはルールを守らなければならない。猫好きたちの夢は、誰にも迷惑のかからない広い土地で自然のままに猫を飼い、ふえるだけ自由にふやすことであろう。しかしそれは不可能なことで、たいていの人は限られた空間で飼うことを強いられる。盛りがつくと大声で鳴いたり、しきりに外へ出たがったりする。だから手術はやむを得ない場合も多い。手術を施す際、私は雄にも雌にも良心の呵責を感じてきた。動物の本来のあり方を人間の都合で曲げることへの呵責である。それを充分に感じながら、大切にして可愛がろうと誓うのだ。

―― 子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から産まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。
 そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか悪いとか、いえるものではない。――


氏は野良猫がふえることに対して手術を施すことに異を唱えないと云いつつ、突拍子もないことも云っている。
『この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ』

避妊手術を施すことと、生まれてすぐの子猫を殺すことが、なぜ同じことなのか。避妊手術とは子種(精子)を殺すことと氏は云う。雌ならば欲情させないようにすることも殺すことと氏は言うのであろう。人々は殺しに手を染めない方法を選んでいるだけだと宣(のたま)う。この点については人間における生命倫理の論議にも似ているが、この場ではそれについて言及するのはやめておく。けれども完全に成長できる状態までもっていかせ、月が満ちて誕生したものを殺すということは、結論(あるいは決行)を先延ばしにしているだけで、かえって酷ではないか。そうすることに何の意味があるというのか。育てさせてやらないならば、はじめから欲情させてやらないほうがいいと私は思う。

氏は手術を施すことと、生まれてすぐの子を殺すという差の間には 1.親猫にとっては「生」の経験の有無 2.子猫にとっては殺されるということ が在るのだという。どちらがいいとか悪いといえないと氏は言うが、本当にそうであろうか。

いったい「生」の経験とは何を指しているのか。氏の云う「生」とは、やはり「性」のことか。そう理解すれば氏の理屈は通る。けれども(その2)で私はすでに述べたが、猫たちの「交尾」を人間の「性交」の感覚で捉えるべきではない。子孫をふやすための交尾が実らぬものであると知っていれば、猫たちは交尾などしないであろう。本能のままに交わらせておいて、彼らの念願の子供が生まれるとすぐに取り上げて殺すならば、親猫の「生」の重視も何も無い。

子を孕むと母体の負担は大きい。4〜5匹の胎児が産み月まで母猫の栄養を奪い続けるからだ。そのために野良猫の雌は度々の妊娠で寿命が短いと云われている。氏の飼い猫は子育ての本能的な喜びも味わうことなく、いたずらに子を孕むことを繰り返して体力を消耗させてゆくのであろうか。これはまさに動物虐待に等しい。猫は飼い主を選べない。とんだ飼い主に飼われてしまった氏の猫たちが可哀そうでならない。

                             (つづく)

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2006年8月28日 

         
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