坂東眞砂子氏への反論 その4

さて、氏の無茶苦茶な論理の展開も佳境に入る。

―― 愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。どこかで矛盾や不合理が生じてくる。――

『人のわがままに根ざした行為』は獣を愛玩動物として飼うことのみではない。人間は様々な動物を食用とし、狭い所へ閉じ込めて観賞して喜び、重労働をさせたりもしている。人間は地球上の生き物をしたい放題にしているのだが、それらのことに心を痛める人は多くはないのは事実であろう。私はそのことに時々思いを馳せる。肉類があまり食べられないのもそのことと関係している。地球上の生き物を牛耳って好き勝手している人間という生き物は、いつか他のすべての生き物の一斉蜂起に遭遇するのではないかと恐れている。(私自身は動物が大好きなので、かれらに滅ぼされるのは病死や事故死でこの世を去るより好ましい)わがままに根ざした行為と知りつつ仕方なく私たちは動物を従えているが、動物たちへのいたわりや思いやりの気持ちを忘れずにいたいものである。

犬や猫は、人間と身近なところで生きてきた。狼を祖先とする犬は賢く、特に寒冷地域や山岳地帯などでは人間を助けて活躍してきた。現在も救助犬や盲導犬、聴導犬など大いに人間を助けている。ところが猫ときたら、鼠を捕まえるくらいしか人間の役に立たないと思う人も居るであろう。おっとドッコイ、それは違う。一見、何の役にも立たないように見える猫だが、その愛らしさは、たまらなく人間を魅了して貢献している。まさに猫は癒し系なのである。

犬や猫と人間の関わりは古代の中国やエジプト時代に遡る。絵画や彫刻にも多く遺されている。人間は神秘的な生き物として畏怖を抱いたり、愛情を注いできた。犬や猫と人間との歴史は長く、互いに身近な存在として親善条約を結んできたのである。現在も世界の到る所で友好的な関係は続いている。氏の云う『人間の干渉なく、自然の中で生きることが、獣の「生」である』という考えは、こと犬、猫に関しては残念ながら該当しない。かれらは人間の生活に密着し、溶け込んで生きている。今後もそのことは変わらないであろう。

『人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている』という意見は正論であるが、このように犬や猫については空しく響く。あるいは『人は神ではない』ことは判っている。『他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない』ことも判っているが、現状を鑑みると、それは机上の空論であると云わざるをえない。氏のように、ものごとをただ一つの角度からだけ見れば、あとの大部分をすべて否定的に捉えなければならなくなる。云うならば、世の中の事象には矛盾や不合理が全く無いものなど皆無であって、どこかで折合いをつけて成り立っているものなのだ。

―― 人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。――

『手術を行う権利もなく、生まれた子を殺す権利もない』としながらも、氏は猫を愛玩用に飼いたいので納得できる道を選び、生まれた子猫を放り投げて殺すのだそうだが、とんだ三段論法である。

―― 私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。――

くどいようだが坂東氏もくどいので、もう一度お尋ねしたい。猫の「生」とは何ぞや? 『猫の「生」の充実』を選ぶというなら、なぜ母猫の体の負担を少しも考えてやらないのであろう。「生」とは読んで字のごとく生きることではないのか。また『社会に対する責任として「子殺し」を選択』してまで猫を飼いたいのは何故か? 猫のことを殆んど知らない人間が解ったようなことを云うものではない。坂東眞砂子氏には猫を飼う資格は無いと思われる。猫の「生」にちょっかいを出すのはもうやめて、それよりも、この騒動での「社会に対する責任」を感じていただきたいものである。

―― もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。――

これだから文を書くのに慣れた人は困るのである。最後はカッコよくキメたいという気持ちは解らないでもないが、この締めくくり方はクサすぎる。それに嘘がある。誠実さが微塵も感じられない。プロの作家さんなのだから(いや、そうでなくても)、いけしゃあしゃあと偽りのことを云うのは恥ずかしい。プロであれば、そのことを忘れず一字一句を綴って欲しいものである。重い言葉は軽く云うものではない。心は言葉に素直に現れることをご存知の筈ではないのか。

罪悪感や悔いなどの堪えがたい痛みや強い悲しみを抱くとき、人は寡黙になる。貝のように押し黙り、そのことを口にするのを避けるものだ。猫とはいえ命を奪ってしまう痛みや悲しみが氏の中で大きいものであれば、このように公の場で、これ見よがしに吹聴することなど出来ないのではないか。氏の「悲しみ」や「痛み」とは、人前でべらべら喋れる程度のものなのであろう。それらを『引受ける』とは何だ。何が狙いでこのようなことをしているのか氏の良識を疑うのである。言語道断、許しがたい。

坂東氏は同じ「プロムナード」という連載のエッセイで、猫ばかりではなく子犬も殺していることを悪びれもせず書いている。7月27日付の「天の邪鬼タマ(子犬殺し)」という文であるが、これに至ってはさらに支離滅裂で残酷非道、開いた口がふさがらない。(興味のある方は、下方のリンクをクリックして下さい)ブランド犬だけを可愛がり、雑種が混じったものには差をつけて放し飼いにし、子供を産むと殺しているのだ。これでは動物愛護団体も黙ってはいまい。生き物を殺すことは仏教の考えからいうと「殺生」にあたり、とんでもない大罪である。

これらの一連の氏の行動は、非難が集中した後に出されたコメントを読んでも納得できるものではない。それにもなぜそのようなことをするのかという明確な理由は述べられていない。それなりの考えがあっての行動であり、外へ向けてのアピールであるエッセイや弁解であろうが、氏の文は短絡的で偏っており、読解不能である。何度読んでも理解ができない。プロの作家といっても訳の解らない文を書いているくらいであるから、大したことはないではないか。坂東氏には倫理観、論理性、思慮深さ、文章力、人間味、良心の、いずれも欠けていると思われる。この度のことで、直木賞作家といえどこんな人も居るのだと、ひどく驚いた次第である。次回は最終回、右近の怒りはまだ続く。

                             (つづく)

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非難が殺到した後に坂東氏が出したコメント
「タヒチ島に住んで8年。人も動物も含めた意味で『生』、ひいては『死』を深く考えるようになった。『子猫殺し』はその線上にある。動物にとって生きるとはなにかという姿勢から、私の考えを表明した。人間の生、豊饒性にも通じ、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって大きな問題だと考えているからだ。」


2006年8月31日 

         
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