坂東眞砂子氏への反論 その5

4回にわたって坂東氏への反論をしたが、いよいよ最終回である。体調を崩して日があいてしまい、気が抜けてしまった感があるが結論しなければならない。

臥せっている間、懐しい本を取り出して読み返してみた。それは加藤由子氏の「雨の日のネコはとことん眠い」<キャットおもしろ博物学>(PHP研究所)である。この本は1990年に刊行され、大ブレイクした。加藤氏は生物学の動物行動学を専攻し、動物関係のライターとして各方面で活躍され、大のネコ好きである。ネコに関する記事や著書を多く執筆、正真正銘のネコ博士である。この本はネコの心理や行動様式について、それはそれは面白おかしく書かれてある。ネコ好き人間必読・必携の一冊と云える。

その加藤先生も第四章の「猫と飼主は親子の関係で結ばれている」で動物の性について述べている。

「動物の性の衝動は、(人間の如く)お経を読んで昇華できる類のものではない。強姦魔さながらに快楽が何にも代えがたいからではなく、子孫を残すことが至上命令だからである。至上命令の遂行に快楽もヘッタクレもあるはずがない。だいたい30秒とかからない猫の交尾では、エクスタシーなんて無理だと思う。
 動物は子孫繁栄のために、適切な年齢や季節が来たら子を作るべく衝動が起きるように作られていて、素直にそれに従うだけだ。清いとか淫らとか貞操とか、禁欲とか欲望とか知性といった範疇のものではなく、餓死しないためにお腹が減ったから何か食べようとするのと同じレベルの衝動なのだ。」

加藤先生はまた、「発情している雌猫を雄猫から引き離すのは残酷なことだ」とする。発情期がきて「悩ましくコネコネする猫」を叱っても効果なく、その時期がくるたびに抑えて猫を苦しませる飼主を批判し、生まれた子の里親を探す自信がないなら避妊手術をするべきだとする。さらに「猫は人間と違い、子宮や卵巣がなくなったことには気づかないから、女でなくなったとか心の傷になることなどない」、ホルモンのバランスが乱れるといっても、発情して交尾しない場合のそれに比べると些少であり、氏は避妊手術が可哀想だとは決して思わないと云いきる。

雄猫に関しても、どこかで生ませた子猫を引き取る覚悟がないのなら去勢手術をするべきだと云う。「タマタマがなくなっても、猫が雄のプライドをなくすはずはない」、さらにさらに「そもそも人間だってそんなもの望まれてはいないのだ」、「タマタマがあることでしか自分の存在に自信が持てない輩とそういう輩しか知らない人種の妄想だ」とニンゲンにまで手厳しい。そして「去勢した猫は、くさいオシッコを家具にかけることもなければ、フラフラと無断外泊を続けることもない。平和で結構ではないか」と宣う。ノラ猫が増えて猫好きが非難されることを憂うなら、不妊手術を考えるべきであるという訳である。

坂東氏も育てられない子猫が生まれないように手術をすることに異論はないとしているが、生まれてすぐの子猫を殺しても同じだとの暴論を吐くのは何故か。それは坂東氏が猫をペットとして意のままに飼いながら、動物の野生の一部分だけをそのままにしておこうとしている不自然な考えによる結論であるらしい。人間の生活の中に生きている家畜やペットを中途半端に捉えることは如何なものか。

加藤氏も私と同じ考えを持っておられる。
「猫の自然な成長を阻むのは人間のエゴではないかと言う人もいる。これは本末転倒だ。しつこいようだが(あ、加藤センセイも右近調だ)、家畜とは人間が作り出した動物で、もはや自然のままの姿ではないのだ。人間社会の中でしか生きられないように作り上げられてしまった動物なのに、今さら自然な成長をしたところで、一体どこでどうやって暮らせと言うのだ。」
と少々怒りをこめて仰っている。家畜どころかペットとして共に生活する訳であるから、飼い主は猫への愛情を深め、毅然とした母親のつもりで飼うことが、家畜となった猫にとっては一番幸せで、大人になれないことを嘆く能力はないのだから可哀想にはなりえない、ペットと飼い主の双方が幸せを感じる暮らしが健全なのだと力説する。

結論から云えば、ペットとして猫を飼うことに迷いや抵抗があるならば、坂東氏は猫を飼うべきではない。愛玩用動物として猫が与えてくれる喜びは享受し、生殖機能だけを認め、子猫を殺して子育てはさせないというのはどう考えても不可解である。“至上命令”である種の保存が出来ない性交など猫に無意味であることを、ふたたび強調しておこう。

さて、云うべきことはすべて云ってスッキリした。しかし、まだ私には云いたいことが残っている。それは作家としての坂東氏への提言である。

ものを書くことを生業(なりわい)とする者は、社会へ言葉を発信するのであるが、言葉を発するということは、みずからの考えを発することである。書くことで考えを主張することは、社会に大きな影響を与え、社会的責任を問われるべきものなのだ。このたび坂東氏が堂々と掲げた「子猫殺し」という衝撃的な言葉に、私は戦慄を覚えた。「殺す」という言葉の重さ。そして現在あまりに軽く使われているこの言葉。毎日のようにその行為はいとも簡単におこなわれ、ニュースで聞いても誰も驚かなくなっているのが日本の現状である。それをふまえて坂東氏はタヒチから母国へこの言葉を発信したのであろうか。

タヒチに住んで7年になるという氏の住む生活と今の日本では、生活様式をはじめ何から何まで異なっているであろう。「プロムナード」の別のエッセイでは道路で轢かれている鶏が新鮮であれば持ち帰って食べると書かれてあったが、それも現地では普通のことなのかもしれない。しかし、それを見つけるのがドライブの楽しみだと公の場で云うのはどうなのか。新鮮な鶏が目の前に横たわっていたら、いただくのは良かろうが、ひとつの命を胃に入れるのであるから、「食」を与えてくれるその動物への気持ちや目に見えない神のような存在に、畏敬の念を抱くことは大切ではないか。動物であろうが命は命、生き物を食することに何かを感じて欲しいのだ。

親が子を、子が親を殺し、些細なことで人を刺したり殺したりする私たちの国の現状は明らかに異常である。凄惨な事件に誰も驚かなくなっていることに私は驚く。かつてこの国は、決してこんなではなかった。倫理なく、道徳なく、無秩序な国と化した日本で「殺」の文字ばかりが目立っている。人の命を殺めるということの罪の重さを鳥の羽根ほどの軽さにしていることを助長するものに、言葉の氾濫がある。「少年は少女を殺した」「母親を殺して少年は…」などの本の宣伝文句に嫌気がさす。

巷ではホラー小説やミステリー小説が溢れている。私はその類の読み物には全く興味がないので手にも取らないが、広告の文字は目に入る。そこでは「殺す」という言葉が、まるで「食べる、飲む」といった日常的に使われる言葉と同じように並んでいる。ゲームの世界でも早くから同種の言葉が頻繁に使われてきたようだ。未成熟な青少年が、それらの言葉や虚の世界での出来事を現実の世界に持ち込むことから、犯罪を起こすことを私は危惧する。

非難を怖れず敢えて云う。俗にエンターテインメント小説と呼ばれるものは面白ければよいのか。「あぁ、面白かった」と読み終える類の本も世の中に必要であろうが、虚実の区別がつかない人間が影響されることを頭に置いて、ものを書く人間は心して作品を出さなければならない。余りにおどろおどろしいもの、残虐なものはほどほどにと云いたい。単なる娯楽のための読み物であると理解できず、登場人物と同化して、短絡的に同じ行動を起こしてしまう人間が若年層に多数いることを肝に銘じて書いて欲しい。売れればよいのではない。自分の書くものが与える社会的影響を、常に意識してものを書くべきである。

小動物を殺すのは心を病んだ者のする行為である。如何なる理由であれ「子猫殺し」という言葉を発信し、その行為を正当化する発言は、影響力を持つ作家という職にあるなら尚のこと、社会的に許されるものではない。そんなことを真似る者が出ないことを私は願っている。

大の猫好き人間と、素人ながらものを書く人間、長く青少年と関わってきた人間と、それぞれの観点から大いに考えさせられる一件であった。付け加えるならば、このような呆れた記事を堂々と掲載する日本経済新聞社の良識を疑うような今回の騒動であり、いつになく真面目に怒った水無月右近であった。

                             (完)

2006年9月15日 

         
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