仏教 thinking

私は幸せである。近頃つくづくそう思う。負けおしみではなく心から思うのである。膠原病とは一生の付き合いであるし、私を看取ると張り切っていたHiroshiはひと足先に急逝した。人から見れば私は不幸な人なのかもしれない。たしかに過去において私は不幸そのものであった。だが、今はとても幸せである。

このサイトを始めた頃、不幸はすでに始まっていた。配偶者の数々の裏切りを知って鬱病になり、それまでの私の人生とは何だったのかと激しい徒労感に苛まれた。ようやっと鬱状態から脱した時にネットデビューしたのだが、依然として不幸の真っ只中に私は根を下ろしていた。配偶者の浪費による多額の借金返済のために切り詰めた生活を強いられ、全幅の信頼をよせていた最も身近な家族の長年にわたる裏切り行為に私は人間不信に陥りかけていた。食べることを拒絶し、それは緩やかな自死の方法とも云えるものであったが、空腹感すら失って横たわる私は不幸そのものであった。

その2年後、配偶者は急逝する。すでに私は八部どおり赦していたのだが、その意思を言葉で伝えられないまま彼は突然に逝ってしまった。人生最大の不幸が訪れたのだった。父の死よりも、友の死よりも、配偶者の死は数倍も大きなものであった。2年間の張りつめた生活に衝撃が走り、修復不可能な亀裂が走った。彼の命が潰えた日、私たちの暮らしは終った。自分に鞭打つようにもろもろの残務整理をしながら、悲しみよりも後悔ばかりがのしかかり、いつ後追いをするかもしれない状況の下で私は不幸を絵に描いたような人であっただろう。

あの時から3年9ヶ月が経っった。人生最大の不幸を経験した者が、もう今はとても幸せだと言えば顰蹙を買うかもしれない。しかし、そう感じているから仕方がない。厳密に云えば死後2年半ほどは頼りない状態であった。前を向こう、頑張ろうと自分を叱咤激励すれど、すぐに崩れては振り出しに戻った。生来の意地っ張りな性格が人に弱音を吐くことをさせず、これは私に与えられた試練だと捉えて外界との接触を避け、ひたすら籠って堪えていた。その辛い時期を経て、ここ一年と少々の間に私は飛躍的に進歩を遂げた。

何故か。それは仏教の力である。「またか」と思わないで欲しい。仏教とは皆さんが考えるより難しいものでなく、抹香臭いものではない。仏教というと葬式や法事を連想する人が多いのは残念なことである。ひろさちや氏は日本仏教の堕落に嘆き、その原因は江戸時代の檀家制度に淵源があると言う。江戸幕府はキリシタンを禁圧し、キリシタンを摘発するために民家の全員を仏教の信者にし、寺に所属させる。そうすることにより寺が民家を監視する役目を帯び、権力側について発言して権力の一機関となった。寺の経済的基盤は檀家制度によって安定し、仏教は民衆に教えを説かなくなり、葬式と法事ばかりを熱心にやるようになってしまった。それは明らかに仏教の堕落だと氏は嘆く。仏教が彼岸宗教であるかぎり彼岸原理に立ってこの世を批判し、体制を否定しなければならない。批判精神を失ったところから仏教の堕落は始まったというのだ。

しかしながら堕落したと氏がいう仏教を、私は堕落した坊さんからではなく(もちろん立派な坊さんも多くおられる)、書物から少しずつ学んだ。日本仏教は様々な宗派に分かれ、今や宗教法人は22万ほどもあるという。私の実家は浄土真宗であり、婚家は曹洞宗である。だが、それら宗派を飛び越えてブッダについて学び、般若心経を学ぶことで仏教にグイグイ引き寄せられていった。読むほどに、学ぶほどに楽になるから不思議である。胸の中のしこりが溶けていくのが判るのである。不幸な出来事の直後にすがる思いで読み始めた時には頭に入らなかったものだが、悲の感情が落ち着いて理解力が勝るようになったのか、書いてあることがストレートに入ってくる。では、仏教的考え方によって私がどのように救われ、喪失の悲しみから解き放たれたかを簡単に説明しよう。

○「諸行無常」を知る
 諸行無常とは、あらゆるものは移り変わるということである。存在も現実も何ひとつとして同じ状態にとどまらない。「諸行無常」は「諸法無我」、「涅槃静寂」とともに仏教の根本原理であり、三法印といわれる三つの真理のひとつである。(「一切皆苦」を加えると四法印)この世に生まれて元気に暮らしていても、その体はいつか滅びるのである。その時期は誰にも知らされていないが、生きている者は確実に死ぬのである。仏教では肉体と精神を「五蘊(ごうん)」といい、それらすべては「空」であるとする。そのことを完全に理解するのは難しいことだが、肉体も精神も元々無かったと考えれば悲しみもなく、また生者必滅の真理に納得すれば彼の死は特別なことではないと悟ったのである。

○「とらわれ」をなくす
 彼に死が迫っていることを察知できず、気になりながらも家をあけて死に目に会えなかったこと、他界前の二年間は冷えた関係で、ろくに会話も無かったこと。悲しみよりもそれらの悔いの方が大きく、私は自分自身を責め続けた。また、死の直前まで彼の浪費や嘘が続いていたことを知って落胆もし、亡き人に対して怒りを感じてしまう自分を醜い人間だと嘆きもした。さまざまな感情が混じりあい、愛しい気持ちや純粋に悼む気持ち以外の負の感情も生じていたのだ。

仏教の言葉で「五蘊」とは色・受・想・行・識の五つの集まりのことである。「色」とは肉体のことで「受・相・行・識」は心の働きである。したがって五蘊とは私たちの心と身体をいう。「般若心経」の冒頭は次である。

 観自在菩薩  行深般若波羅蜜多時
 かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみたじ

 照見五蘊皆空    度一切苦厄
 しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく

(観世音菩薩は、真実に目覚める智慧の行を究められて、身も心もみな空であることを悟られ、一切の苦しみから救われる道を示された)

皆空とは“皆な空である”という意味で、五蘊皆空とは何もとらわれの実体がないということだ。度一切苦厄の度とは度すること、つまり救うことで、身も心も実体がないことを悟られて、一切の苦しみや災厄から救われる道を示されたということである。私がとらわれていた負の感情は、そもそも実体がないものであったのだ。そこにとらわれて日々を鬱々と送ることは愚かなことであると気づかされた。毎日をくよくよしたり投げやりに生きていることは何をも生まない。それよりも、残った私にはまだするべきことがあるのだと考えを切り換えて、自分を高めることからしなければと考えるに至ったのである。

○幸せとは何か
 此岸、つまり俗世においての幸せは、たいてい富であったり社会的成功であったりと考えられる。だが彼岸的な幸せとは、まったくそれらと異にするものである。物的、金銭的に満たされることや地位や名誉を得ることではない。足るを知って感謝の気持ちを忘れずに、心のやすらぎを得ることである。このように此岸と彼岸では、ものごとを計る尺度が違うのである。此岸で人々は「無明」(無知なこと)と「渇愛」(あくなき欲望)による「煩悩」に踊らされ、あくせくと生きている。けれども此岸に生きていながらも彼岸的なものの考え方を身につければ、心の平穏が得られる。「八正道」の実践をこころがけることによって清明が保て、煩悩から遠ざかることが出来るのだ。「八正道」とは正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定のことである。つまり、正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一である。

治らない病気を持ち、配偶者に先立たれた私は今でも人が見れば不幸に映るのかもしれない。だが当の私はつくづく幸せな人間であると思っている。毎日が充実し、あらゆる新しいことを学ぶ姿勢が甦ってきた。何でもやってみようとする好奇心も旺盛である。此岸ではなく彼岸の尺度でものごとを考えると、自然の豊かな中で花を育て、大好きな猫と暮らす私は至福である。おまけに書いたり、読んだり好きなことをし、念願の学業の続きにも取りかかろうともしている。皆さんはじめ私のことを気にかけてくださる温かい人々も与えられている。これほどの幸せがほかにあろうか。私は幸せ者である。

人間の幸・不幸は心の持ちようひとつなのである。私は生かされて在ることに感謝する日々である。Positive thinking ならぬ Bukkyo thinking をすることで私は救われ、再生できた。今後は折りにふれ仏教のことを語るつもりである。見渡せば幸せに見えはしても自分の居場所が見つからない人や、不平不満や虚しさを抱えて暮らしている人だらけである。それは不幸なことである。仏教が悩めるあなたを救うことができれば幸いである。


※参考
  仏教講義(ひろさちや著)
  般若心経90の智慧(公方俊良著)

2008年5月2日 

         
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